あとはそっちの番


 下り線のホームに降りたところで、すでに赤いメガネの高校三年生は単語帳と睨めっこしながら白い息をマスクの内側から吐いていた。ひと気はやはり多くはない。冬の淡さがコンクリートに溶けこんで、やっていられないほどに乾燥している。


「お待たせ~チカっち」


「ううん、今来た……マチちゃん制服? めっちゃ似合ってんじゃん!」


「じゃんじゃん」


 ふたりともいつもどおりの調子で、とりあえずは安心といったところだろうか。私とも挨拶を交わしたチカさんと、いよいよ今日だねと平坦な声で告げた。彼女も表面に出すことはないが、渦巻いている不安や期待や人生の潮流に蓋をして、平常心の権化みたいにうなずいた。今日は晴れだねと言われたときのように。


「ほらほら先生、ここだよ」


 にやけ顔。しっかりローファーまでしつらえてあるゲン担ぎとやらは、いつもは聞かない足音を立てて私に迫る。


「なにが?」


 そこから離れんとあとずさり、流していた前髪がずれ、視界のほとんどが炭素で染まる。本日における彼女たちの武器であり、戦友でもあるシャーペンならびに鉛筆と同じ素材。


「贈る言葉だよ~分かってないな。先生が生徒にできることなんてそれだけじゃん、金八先生みたいに」


「武田鉄矢が言葉を贈ったのは卒業するときだろう」


 さっき起きた人間にどう気の利いたことを言えってんだか。まともにセットしていない髪の毛を掻いて、さらに状況は悪化していく。


「いいじゃん硬いこと言わずにさ~」


「んなこと言われても……」


 受験生にかける言葉。そりゃこういう仕事をしていれば、試験前日の子供たちになにかエールを送るだとか、そういうことはしてきたつもりだ。けれどもそれは塾内で、こっちもスーツという仕事着を着ていればこそ気持ちがそこに照準できるのだ。こんな直前に、今から会場におもむこうという彼女たちを目の前にして、しょせんは他人の私になにが言えるというのだ。そりゃ私だって北関東の山から、今日のふたりのように試験会場へと旅立っていった記憶を持ってはいる。そして、そのときのことを思えばこそ、なにを言おうとも緊張を解いたり、自信を持たせたりすることなんてできないと分かるのだ。


「……イズミ先生、私もなにか、先生のお話聞きたいです」


 え? 目を丸くしてしまったが、たしかに目の前のチカさんはマチと同じく金八的な展開を要望してきているのだからどうしようもない。同調するようにうなずいたマチは、援護射撃を貰ってご満悦だ。


「さあさあ、ここで言わなきゃ講師の名が廃るよ~?」


 すでに廃れているようなものだけどな。


「んんん……」


 困ったものだ。さすがにここまで求められては拒絶する方が悪影響だろう。となればあたり障りのないことを言って逃げておくのがいいのだろう。いつもどおりに、とか、緊張するのもしかたない、とか、あるいはここで失敗しても次があるよ、とか。


「やれやれ……」


 ふたりの受験勉強は私がともに過ごした時間よりもずっと長い。塾の授業時間なんて彼女ら全体の勉強量からすれば微々たるものだ。だから私がなにか力を貸してやったとも思っていない。主にみていたのが歴史系なのだから、暗記するという努力を肩代わりできるわけもない。彼女たちが試されるのは彼女たちの努力だ。


 私は彼女たちを助けられない。今までと同じだ。


 私はどんな子供のことも、助けてあげられたことなんてない。


 なればこそ。


「……私は……」


 なにが羽ばたいているのでもない空が、線路を挟んで並んだ屋根のあいだから垣間見える。よく晴れているのでもない、だからといって泣きだしそうでもない、これといって語ることのない曇天。ほかの受験生だって同じような空の下にいて、パッとしないものの確実に曲がりはじめた人生を感じながら、呼吸のたびに歪む心臓を無視している。あの日の私も、去年のアキさんやハナさんがそうだったように。


「この試験をあなたたちの闘いだと思っている」


 並んだふたりは、私のことを優しく、赤子のような純真で受け止める。外套で寒さから守られている身体と、マスクによってウイルスから身を守ろうとしている顔でも、目だけは隠すことができないのは、ある意味では希望だった。


「そう思えるのは、今日に至るまで、私が悔いのない仕事を全力でやってきたから」


 私が渡せる知識、暗記方法、なにか役立ちそうな歴史観、法則。もうほとんど、あげられるものはない。空っぽになってしまうまで、私は彼女たちに語りかけてきた。もう彼女たちへの授業も一般対策の数回となってしまっているのだから、とうぜんではあるが。


「あとはそっちの番だよ」


 うなずくマチ。笑うチカさん。ふたりともおそらくは話の内容なんてどうでもいいのだ。ただ、勉強をするときは私の声が聞こえてくる、というのがルーティーンになっていて、この儀式があること自体が、きっと心の平均台を渡るのに必要なことだったのだ。


「私は自分の仕事を信じる。だから、あなたたちもあなたたちの努力を信じなさい」


 凡庸なセリフだ。自分でも演じているなと分かるほど、つたないパフォーマンスだ。


「信じたところでなんになるわけでもないけど、自分の行いに誇りを持てる人間だけが、闘いのなかで正気を保っていられるの」


 そこで各所のスピーカーからアナウンスが流れる。小田原行き急行、まもなく到着とのこと。まだ話の途中なようにも思えるし、こういう外圧がなければ中断のしようもないような気もした。ともかく、ときは来てしまった。持っている切符では、彼女たちと同じ空間に行くことは叶わない。


「……行ってらっしゃい。生徒たち」


 嘘とバレてもいいから、精一杯の誇りを胸に、私は彼女たちへ笑んだ。


「行ってきます。先生」


「ありがと、行ってくる」


 轟音と強風と降りるお客様をやり過ごしたふたりの受験生は、それぞれの衣服だけを鎧とし、筆記用具を武器として、下り列車に身を任せる。それぞれの手が落ち着ける場所を掴むころには自動ドアが無造作に閉まり、こちらの岸辺から隔絶された世界となって動きだす。


 私は手を少し上げ、これを別れの挨拶とすることにした。


 数十秒は去りゆく列車を眺めるだけの益体もない人間となっていたわけだが、次の列車に乗るための人々が階段から何人も降りてくると、邪魔になるだろうなとステップを踏んで階段へ向かわざるをえなくなる。跨線橋から眺める延々と続いているようにしか見えない線路には、もう列車の影は見えなかった。


 今日はこのあと仕事がないものの、人と会う予定もある。それまで二度寝をしておくべきか、ハナさんに任せっきりの家事をきちんとやっておくべきか。同居人に気を遣って二度寝を我慢するなんて、ひさしぶりだなと嬉しく頭を悩ませる。


「……そうだ」


 祈る対象はあの店長さん以外にも、もうひとりいるじゃないか。私のもとから勝手にいなくなって、勝手に傷だけ残して、あげくの果てに修復のひとつもしてくれなかったあのボンクラ美容師が。


 ふたりを頼んだ。慣れないところで苦しまないように。


 念じた私はひとりのまま、向ヶ丘遊園駅をあとにした。なにをしたわけでもないのに、晴れやかな気持ちになってしまう。踊り場をタップしながら、二度寝への行進と勇んでいく。やっぱり人間は、自分のことしかどうにかできないのだなと辟易しつつ。それでもやはり、他人のためにジタバタするものなのだと弁えた。

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