まるで女子高生

 では私が慣れていないのはなにか。そう、早起きだ。


 人間の睡眠とはある種の周期を組んでいるらしく、眠りに落ちてから浅く夢を見るような時間と、深く無限の暗闇を展開するような時間を行き来するらしい。そのあいだに髄液が脳を洗浄して、昼間の思考や行動で重なった負荷を和らげていくことで次の一日を迎え撃つのだから人間というものはよくできている。私が命令なんてしなくても、肉体は自主的に修復や整備を欠かすことはない。私に比べれば、私の身体のほうがよほど賢く有能に動いてみせるのだ。


 そして、そんな肉体が〝つらい〟と感じているのだとしたら、それはもう人生において回避できない困難が舞い降りていることを意味している。この世にハルマゲドンがいつ訪れるのかは知ったことじゃないが、私の一期たる生に襲来した天変地異はこの朝にある。


「起きたくない理由をそれだけ長く説明できるんなら大丈夫、ほら行くよ」


 深く眠りこんでいたところをバカなパーカーコウモリチビウスノロパンダバカに叩き起こされた私は、モーセに割られたんじゃないかという頭を抱えている。そりゃまあ、となりの家に住んでいるのだから出かける前にここに寄ることは叶うだろうが、毎度こいつはどのようにして施錠という集合住宅におけるジェリコの壁を突破しているのだろうか。ラッパでも吹いているわけでもなさそうだが、このまま私が寝床から出てこないなら、自衛隊よろしく朝っぱらから演奏開始とあいなりそうでうんざりする。


「化粧したくないからここで見送る……!」


 マチが強奪しようとする布団。かけがえのない布団。間違いない、こいつの代わりだけは絶対にいないから離したくない。それを引っ被りながらふたたびの眠りにつこうとする私。朝の七時なんて、人間が目覚める時間じゃない。


「マスクしてればいいじゃん、帰ったらすぐ寝るんだし、いいからおいでよ」


 引っ張られる我が約束の地!


「いやだ~」


「チカっちも待ってるんだから!」


「んん~! 分かった分かった」


 ドラえもんのようにしゃがれた声で答え、ともかくは観念する……不本意だが。


 これ以上に大きな声を出されるととなりで眠っているハナさんまで起こしかねないから、まったく開かない目を擦りながら上体を正す。まったくもって活動的な気分ではないが、今日という日は私にとっても他人事にできるわけもないのだし、観念することとしよう。


 チキンステーキを頬張ってから二日、本日は史上初となる共通テスト実施日だ。


 子供たちの出陣を送りだすだけの大人とは、とかく情けない気持ちになるものだ。けれども代わってやることもできないし、なんなら彼ら彼女らの人生にとって必要不可欠な跳躍をする、ひとつの成人儀礼の瞬間なのだ。だとしたらこっちもそれ相応に門出を祝ってやるべきなのかもしれない。が、電車の見送りまでやれと言われると、学徒出陣のコスプレがすぎるだろうと反論もしたくなる。


「メイクすっか……」


「まあ、まだ時間あるしお好きにどうぞ~」


 光あれとまぶたを開くと、朝から元気旺盛なマチがいつもどおりのハツラツさを振りまいている。足元に寝転がっているハナさんを踏んづけやしないか不安だったが、こいつにかぎってそんなドジは踏まないだろう。


 しかし私はそんなことを意識しているのではなく、もっと大きな違和感について呑みこめないまま、マチのことをただ見つめていた。枕元に置いておいたペットボトルの水を口に含んでなお、やはりその格好には見覚えがないじゃないかと首をかしげてしまう。まだ夢を見ているのか、それとも今までの人生が夢だったのか。


「……あんた……なんで……?」


「ああ、これね」


 自分の手で着替えただろうに、なんでそんなにどうでもよさそうな反応をするのだろうか。みずからの衣服をしげしげと眺めているマチは、いつものような黒のパーカー姿ではなく、黒のセーター、タータンチェックのスカート、完全にどこかの学校に通っている、そう、まるで女子高生そのものという姿をしていた。


「じゃーん! 似合う? ゲン担ぎってやつさ!」


「……え……ああ……まあ……」


 私はそっけなくというか、心ここにあらずという調子で返事をした。


 悔しいかな、そのいで立ちはいつだったかバルコニーの手すりに立っていたときのマチに勝るとも劣らないくらい、近寄りがたく、目が離しがたい崇高さに覆われていた。


 もっとはっきり吐露してしまえば。見惚れてしまった。


 だから私は、こいつの問いに答えることはできず、首を振っては洗面台に足を運ぶことにしたのだ。


 制服姿というものに心動かされたわけでもないつもりだが、その正体を探るには、朝の時間はあまりに貴重で、短かったのだ。



 ハナさんが働いていた花屋の跡地を過ぎていく。私とマチのあいだではすっかりポイント・ネモ扱いをされているその場所は、かつて通っていた大切な場所だった。どこも同じような郊外だけれども、なくなったものに似ているものはそうはなく、思い入れとはどうして失われたものばかりに注がれるのだろうか。亡くなったその店の店長さんを想い、心のなかだけで手を合わせた。


 おじさんにはまったくもって関係のないふたりですが、できれば今日一日不運や不条理から守っていただけないものでしょうか?


 改札を潜るところまでの見送りでいいだろうとタカをくくっていた私だが、チカさんはすでにホーム上にいるとのことで、入場券を求める羽目になった。べつにチカさんのためならなんてことないが、となりにいる制服マチが子供のようにはしゃぐテンションには、脱力すら感じさせられる。


「ドラマのワンシーンみたいだね、ホームで見送りなんてさ!」


 こっちとしてはBUMP OF CHICKENの『車輪の唄』をなんとなく思いだしているところだから、変にシンクロニシティをかましてくるものこれまた愉快でなかった。マチが向かうここから三〇分も経たずに到達できる理系のキャンパスが集まる土地は何度か降りたこともあるし、私は入場券を大事にしまうこともなかったから、そこまで歌詞の再現ができていたわけでもない。マチのリュックも、やはりどこにも引っかからない。


 向ヶ丘遊園駅の改札を抜け、登場する階段を歩く。私、アキ先生、そしてその同級生だったハナさんが多額の学費を払ったことでおなじみの大学が宣伝されていたり、小田急関連の観光地、箱根とか江ノ島とかのポスターなんかのオンパレードで、パンデミックとはなんだったのかというほど人流を勧める、人流をつかさどった階段だ。


「踊り場ってなんでそういう名前になったんだろうね」


 平坦な地面を二歩進んで、マチはさぞ不思議そうにぼやいた。こっちからするとその格好こそ不思議ではあるのだが。


「どうだったっけ……踊りに関係はしていたと思うけど……」


「先生の謎知識もふとした日常の疑問には通じませんか……」


 階段を上りきって左へターン。スカートがふわりとなびく、さながら踊りの最中のよう。


「町はとても静か過ぎて」


 藤原基央を口の中で転がした。

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