ここはスナイフェルスヨークトル
彼に失望したのなんて、今に始まったことじゃない。私たちは元来、ささいなことで言い合いになったり、不機嫌になったりするような関係だった。同棲によいことなんてなにもなく、婚姻という束縛がいかに合理的な制度であるか身をもって理解した。そんな制度でもないといつか絶対に破局するだろう。まあ、確実に別れないという方法のほうはないのだが。付き合いはじめて半年、彼が私の部屋に越してくるという形で口火を切ったそれは、ジャンガリアンの回し車よりもうるさく邪魔で、経済効率が多少よくなったことが利点に数えられるだけだった。それはそれで、大事なことではあったといえるけれど。
「お金に余裕も出てきたし、ディズニーでも行こうか」
無駄遣いもあったせいで貯金はさして増えなかったというオチ。そして、休日に疲労を溜めるという本末転倒だって幾度も味わった。それはテーマパーク内の生ぬるいディストピア飯のように大味で、かつ値段に見合わないクオリティに思えた。チキンレッグをハムスターがニボシを齧るような背筋で咀嚼した彼に、一週間ぶり通算五八回目の失望を感じながら、つつましくデートモードなモグモグをしていた夜。はじめてのディズニーシー。センター・オブ・ジ・アースの待機列に並んでいた私は、そのアトラクションの原作、元ネタがなんであるのか予想していた。インディ・ジョーンズはもうタイトルがそれだったし、ほかのアトラクションも多くはキャラクターの名前なんかがついていて分かりやすいものばかり。けれどこの絶叫マシンのタイトルには覚えがなかった。
「これめっちゃお腹浮くからね。楽しみにしてて」
「うげー」
岩窟を模した壁と宝石や探検道具が並べられている待機場所は、異世界をライド前から提供してくれる。埃っぽいような気がするのに、鼻や指はそれらを感じることができず、視覚によって得られる錯覚をうまく利用されているんだなと、こもった空気のなかで納得した。
ガイドアナウンスが、地底探検によって未知の生態系、あるいは絶滅種の発見が期待できると告げる。その瞬間ひょっとしてと、回答が頭のなかを飛び回った。思わず上げた声に、近くにいた女子高生集団がいっせいに視線をよこす。
「あ! ここはスナイフェルスヨークトルか!」
「うん?」
恋人はなんのことだと怪訝な目。教養のないやつはこれだから困るぜ。と他人をバカにするのは大学生で卒業すべき。ともかくは気がついた感動を分けてみる。
「『地底旅行』、ジュール・ヴェルヌの初期作品が元ネタなんじゃない? これ」
目が輝いていて、自分でもおもしろい。
「え? ああ……まあよく知らないけど、そうなの?」
「だって、だって……ね、ほら!」
答え合わせとばかりにスマートフォンで検索をかけ、東京ディズニーシーのホームページからセンター・オブ・ジ・アースの紹介をタップ。案の定、原作は『地底旅行』と書かれているではないか!
「おーほんとだ。すごいね」
「へへっ、なんかストーリーに聞き覚えがあるなって思ってたからさ」
「で、その『地底旅行』って有名なの?」
列が進むたびわずかに動く足と視線。想像以上に足を酷使しながら、同じくらい思いもよらなかった興奮でそれを無視する。彼はとにかくアトラクションに乗りまくるという楽しみかたを重視するから、正直私とそりは合わない。が、その罪滅ぼしと話に相槌を打ってくれるし、少なくともつまらないという顔はしない。
「『海底二万里』を書いた人っていえば、知名度の表現になるかな?」
自称、他人と話すのが得意なだけはある。
「ああ! あれだろ? レモ船長」
「ネモ船長」
ディズニーでしか触れたことがないらしい。トホホな気持ちだ。話が噛み合わないったらありゃしない。分かっていたことだし、そこに惹かれていないこともないこともないかもしれないかもしれない。つまりはそういうことだ、やれやれ。
「ま、そんなに関係あるとも思えないけど、そんなに落ちるんだっけこれ」
「落ちる、もうめっちゃギューンて」
「ぎゅーん」
「ギューン!」
なにでかい声出してんだ。
「絶叫系は得意じゃないのよねぇ」
「死にはしないよ、大丈夫」
なんの慰めにもならなくてびっくりだ。まあ、インディ・ジョーンズはもう五回くらい乗りたいと思えるほど愉快だったし、彼のアトラクション選びにも信用をおいていいのかもしれないが。
「でも爆速で落ちるんでしょ? 座席ごと吹っ飛んだらどうすんのよ」
生徒から受け取ったわずかな知識を振り絞る。この敷地内における脅威度はタワー・オブ・テラーとこれの二強だと教えてもらったのだ。講師なのに。
「だとしたらもう笑うしかないね。生き残ったほうは死んだほうを笑いものにしよう」
山のてっぺん、屋根が外されている部分から急降下するこの乗り物。ヴェネツィアをモデルにしたのであろう開けた港からも、人がゴミのように叩き落されているのが確認できた。あそこから外へと投げだされる私たちを想像すると、ある意味で伝説を残せそうで笑えた。
「いいね。あんたが死んだら、とにかく悪口ばっかり言うことにする」
冗談めかす。いつものノリだ。
「そうしてくれると助かる」
とたん彼は湿った声。アンニュイな表情で私を見た。
「……なんでよ」
あてられてしまったから、こっちのふざけたテンションから急降下してしまう。絶叫するほどでもなかったけれど。ただ、なにかを悟っているかのような言いかたには聞かせるものがあるのも違いなかった。いまだに、彼がなにを感じ取っていたのかについては、知るよしもない。
「だって、イズミを残して死ぬとか、もっぺん死ねって感じだし」
だったらもう一回死ぬために生き返ってくれよ。頼むからさ。
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