私のあとに来ないでください

「……先生? 聞いてます?」


 あ、ごめん。と言いたいのにまだ口が動かない。丸椅子に腰を下ろしていた私は、実家付近で待ち合わせ場所に使われていたカカシの群れに混ざれるくらいにぼうっとしていた。仕事中だっていうのに困ったものだ。説明に使いそうな赤ペンを探す。


 ない、ない。お尻のポケットなんかになんであるんだよ。悪態をつきながらもペンのお尻をノックした。


「それと、質問大丈夫ですか?」


「うん、ごめんね」


 チカさんが指さした問題を見ようとするが、透明なビニールシートのせいでぼやけてしまう。断りを入れてから参考書を引っぱって、日本史の問題を確認した。


「それ、もはや世界史の問題じゃないですか?」


「う~ん、そうだね、そもそも現代社会でもあるし。これどうやって解くんだろう」


 日本が貿易相手にしている発展途上国の貿易額ランキング。いくら共通テストから資料系が多くなるっていっても、いささかチョイスがニッチすぎやしないか。このテキスト。そんなの普通に日本史の勉強をしていたら分からんだろうが。


「知識としてはね、一位がカンボジアで二位がバングラディシュなの」


「じゃあ回答はバングラディシュと……答えもその説明しかないですね。難問って書いてあります」


「悪問の間違いだけどね」


 吐き捨てると、チカさんはちょっと嬉しそう。なにがおもしろいのと首をかしげると、大学受験が迫っているとは思えないくらい、屈託のない笑みを浮かべた。


「なんか、先生マチちゃんがいなくなって元気がなくなっていたみたいでしたから。いつもの調子で文句を言っていて、ちょっと安心しました」


 いつもそんなに文句垂れながら仕事してんのかよ私。心配もさることながら安心を提供する私の状態もめちゃくちゃだ。


「いやべつに、あいつがいなくなってくれたおかげで、仕事がやりやすいったらないわよ」


「またまた~」


「他人の心配より自分の心配!」


「分かってますよ」


 長年通っているチカさん。つい先月には彼女の高校に吹き荒れた文化祭という旋風をめぐって、なぜか部外者である私やマチが右往左往していた。というのに時間というものは、あっというまにどっかへ行ってしまうのだからおそろしい。


 黒スキニーに包まれた足をうんと伸ばす。こんな服装でも許されてしまう職場が過ごしにくいわけもないし、あげく手間のかかる生徒までいなくなったのだ。なにを落ちこむ必要があるのだ。自分でも詭弁と分かっている励ましで残り二時間を戦い抜こうと決めた。死んだ恋人のことで今さらダメージを受けていることは、このさい無視だ。


「で、バングラディシュってどんな国なんですか?」


 世界史の知識っていうか、現代社会の知識も薄いもので。チカさんはメガネを拭いて、ちょっとした休憩モード。ほかの生徒も粛々と問題を解いているから、少しくらい付き合うべきか。勉強に関係がないわけでもないし。


「まあひとことで言ったら貧しい国、かな。失礼だけど。歴史的にはインドといっしょに英国の植民地になっていて、その後東パキスタンとしてパキスタンの飛び地になり、独立戦争を経て現在にいたると。ただ行政の怠慢やインフラの問題とかが影響して、アジアのなかでも最貧国に分類されているって感じかな」


「おおう、さすが世界史もできる先生。で日本は貿易をそれなりにはしているんですね」


「そもそもで労働者の賃金は低いし、そのくせ人口は多いしで、外国から企業が参入したりすることも多いんだ。彼らの不遇が諸外国にとっても不遇とはかぎらないってこと」


「……搾取ってやつですね。小人扱いしているわけですか」


 肩をすくめたチカさんは。わざとらしい単語のチョイスに自嘲する。学校で面倒ごとを背負いこむことをくり返してきた彼女も、今はさすがに受験を優先してくれているよう。もっとも、この時期の三年生になにかしらの行事や実習が降りかかるということもないから、おそらくはこの三年間でもっとも快適な生活に、彼女も気を楽にしているのだろう。


「……最近、学校はどうなの?」


 親戚のおばさんみたいなことを言う。


「穏やかに凪いでいます。メリちゃん、私の幼馴染はちょっかいかけてもきませんし。風のうわさで指定校推薦を貰ったって聞いたので、気楽なんじゃないですかね」


 治った傷を見せるように手を揉んだチカさん。可動域に問題はありませんとたくましい様子だ。苦しい思いをしたのは変えようもないが、変わった自分がおかしいわけでもない。成長とは、きっとそういう自覚のもとで起こるものなのだろう。


「文化祭も部活も終わったので、さまざまな処理を任されることもなくなりました。ゴミ処理場という職場から、足を洗ったような気分です」


「バングラディシュからの出国ってわけだ」


「ほう?」


 それはどういう? はいはい、きちんと説明しましょう。


「バングラディシュはチッタゴンに、世界でも有数の『船の墓場』があるの。ようは船の解体業がさかんなのね」


「ああ、乗り物系には専門の解体施設とか、そりゃ必要ですもんね」


「車ならまあまああるけど、同じような扱いなのは飛行機とか列車とか、あとは人工衛星にも同じような場所があるね」


「資本主義の墓場ってやつですか。競争社会の闇を見た」


 私が乗っているレールなんて、その代表例みたいなところなんですがね。そこまで言った彼女も、雑談はこのへんにしておくかとメガネを直しページをめくった。ピンと伸びた背筋は何年も変わることがない、定規を添わせても問題ないほどまっすぐ。彼女の芯は、こうも物理的。どんな経験を積んで成長しようが、曲がることのない強度を持っている。



「……変わんない、ね……」


 帰宅間際。生田緑地を貫いて下山した私は、冷蔵庫の中身から電子レンジとひとつのフライパンで作成できそうな料理について考える。面倒だしそれすらやめて、シャケフレークと漬物をぶっこんだ茶漬けで終わらせてしまおうか。ご飯もそんなの。明日も早くはないから、時間には余裕がある。理由をどんどんつけていって、あとは思い切りを宿すだけ。昔からそれなりにビビりな自覚はあるし、土壇場で行動が鈍ってしまうことに疑いはない。


「もっぺんいくか……」


 世界には変わるものと変わらないものがある。小心者の傷心がどうなるのか、焦心に答えを求めるのは子供っぽい。ムギちゃんを助けたときと同じように、恋人が死んだということから逃げだしたいだけの愚かな行為だとしても、まだあいつが変わっていないのなら、私はなにかをしなくてはならない。


 郊外社会の光を見る。私のとなりの部屋、向ヶ丘遊園のアドベンチャーワールドとなっているあそこには、さぞかわいらしいパンダがいることだろう。窓から漏れる明かりから、その生存も確定した。入園料が必要なら、しっかりと払おうじゃないか。


「こんばんはー」


 インターホンを押し、数十秒。人がいるはずの家のなかからは、物音ひとつ、やはりしない。居留守をするにせよ、ちょっと苦しいやりかたじゃないか?


「マチー?」


 個人名を指定する。ボタンだけじゃなく、ドア自体も叩いてやった。一度やったことがあるのなら、とたんに心のハードルは下がるものだ。形式的には切れてしまっている縁だし。こうなりゃとことんまでやってやろう。


「おい、いるんだろ! 出てこいよ! マチ!」


 太鼓の達人でいうところの難易度鬼がごとくの連打。上限はいらないし加減もしない。呼吸を整えるのだ、鬼だけに。


 と調子づいていたところで、扉はあっけなく開いた。わずかに腕が通せるくらいだったけれど。隙間からは床と痩せた細い腕。


「今、いない」


 声……だと分かったのは数秒の沈黙が過ぎてから。低くも高くもない、男なのか女なのかも判別不能。人間が出している声にしては、モザイクがかかったように不鮮明。


「マチの……」


「親」


 親、親とは……そういうことなのだろう。この人がマチを育てたり、日常的に話したりする相手なのだろう。いや、必ずしもそうとはかぎらないが……。


「これ、渡すように頼まれている」


 異物感と表現していいのだろうか。マチの親御さんからは、生きているという気配もなにかを考えているという雰囲気も感じられない。ここにいるようで、まったく別の場所に行ってしまっているかのような、人間ではないもののよう。さしずめマチはETで、この人はそれを迎えにきたあの母船の中にいた宇宙人。私はなにもできることはなく、ただあいつを見送ることしかできないと、そういうことだろうか。


 細い腕が持っていたのは、灰色のウエストポーチ。ずいぶん古いもののようで、ベルトの部分の皮が剥けてきてしまっている。汗かなにかで内側が変色までしているし……。


「あとは、こっちにも分からない」


 パタンと閉じたドア。ポカンと開いた口。軽いポーチだけを渡され、結局マチがどこへ行ったのか、今どうしているのか、なぜ塾を辞めたのかということなんかは聞くことができなかった。おそらくは食らいついて情報を引きだそうとしても、望みは薄いだろうなとしか考えられないが。


「……手帳?」


 部屋に戻り中をあらためさせてもらうと、革のカバーに包まれた手帳が一つ。表紙をめくるとマチの書いた字が大きく、あいつらしく贅沢な紙使いを振るっていた。


『私のあとに来ないでください』

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