これで無理なら一一〇番


 登戸駅の交番に犬のおまわりさんは帰宅していなかった。困ってしまって泣いているのだろうか。どんな規模の酔っぱらいバトルが繰り広げられたというのだ。南武線も接続しているこの土地じゃ、人が死んだりすることも珍しくはない。複数人でなければ、まあ。


「お家ってどんなところにあるか分かったりする? 近くにあった建物とか、お家からなにが見えるとか」


 多少歩く程度なら五歳児をおぶりながらでも特に問題はない。これでも中高と運動部に所属していた身だ。夏とはいえ陽が沈んだ後ならこの行軍もなんとかなるだろう。という雑感、歩き始めて五分くらい。


「電車が……見える……」


 相変わらずの眠気だ。意識がある以上は深刻な体調不良が起きているわけでもないのだろうが、それでも気を配りすぎても悪いということはないはず。心配がすぎるのかもしれないが、しかたがないといえばその通りだった。子供というものは分からない。考えていることがあるのかどうかも、あるいは本当に言いたいことも。


「はぁわぁ」


「あくびだね~」


 久しぶりに笑みがこぼれた。しまったな、彼女の手前もっと柔らかい表情をしておくべきだったなと反省もセットだ。私の心配も思い過ごしに終わってくれそうだからよかったけれど、さてそうなると残った問題は彼女を無事に家まで送り届けるというものになるわけだ。意識がそちらに向いたとたん、足腰には彼女の肉体の重みが掴みかかる。参ったものだとため息をついた。でもしかたがない、一度引き受けたのだから。投げ出そうにも、人の心や命が関わっているのだ、どうしてそんなことができるだろうか。


 女の子と女のふたりは若干の修羅が垣間見える路地を抜け、また向ヶ丘遊園方面へ。今度は線路沿いの大通りを歩く。足取りはさっきと比べて遅くなるだろうかと懸念があったけれど、ムギちゃんのペースに合わせる必要がなくなったから、却って速度は増していた。もちろんこれは、おそらくは明日には訪れるのであろう筋肉痛と引き換えに得るものなのだが。


「よしじゃあ、線路沿いに歩いていこうか」


 さながら『スタンド・バイ・ミー』のようだ。あの映画とはずいぶんと人数も減ったし年齢もでこぼこ。もちろん彼女が観たことがあるはずもないから、思うだけに留めた与太話。雑居ビルと飲食店の灯りは私たちには手を差し伸べず、疲れと不満を溜め込んだ人々だけを呑んでいく。私たちには煙中で愚痴る権利もないのか、あるいは勝手に壁を作っているだけなのか。そんなことよりお家に帰りたくて、帰さないと帰れない『プライベート・ライアン』な夜と化す。私が教師だって信じてくれない顔へとなるまえに、きちんと任務を完遂できるとよい。


「なにかお話をしようか? ね?」


 ムギちゃんの意識があると確かめるため、あとは私の暇つぶしのため。


「お話……あ、さっきの川に咲いていたお花の名前ってなに?」


 さっきよりもはっきりとした口調だ。おぶってあげると少しは楽になったようだ。眠気と疲れは同期しているというか、同じものということか。毎日眠る私は、毎日疲れているということなのだろうか。じゃあ眠れない夜は、一日を頑張らなかったせいで訪れるのだろうか。冗談ではないが、反論のしようもないか。


「お花? いや……ちょっと見つけられなかったかも……」


 暗がりだったし、なによりも彼女の様子を観察することに気をとられていて、まともに周りを見ていなかったのだ。この季節、あの土手にはどんな花が咲いていたっけか。絶対に見たことあるはずなのに思い出せない。考えてみればこの人生、覚えていることのほうが少ない。


「白いお花、奇麗」


「奇麗なお花があったんだね」


「うん……お家にもあったやつ」


「じゃあ、お母さんが好きなお花なのかもしれないね」


「うん……」


 さてこのへんはどうだろう? あたりを確認するように促したのは向ヶ丘遊園駅にほど近く、踏切間近の開けた道路でだ。彼女を見つけた場所からそう離れてはいないのだけれど、子供の空間把握能力なら地図上の距離なんて関係なく、とにかく確かめてもらうのが吉のはずだ。


「こういうところじゃない……」


 落ち込んだ声。気持ちで負けないでおくれとすぐさま話題を変える。


「じゃあ、迷子になる前にどういうところを通ったか、覚えているかな?」


「もっと木とかがたくさんあって……」


「木か……う~ん……」


 与えられた情報はわずかだけれども、子供の足で来られる範囲で電車と森を共通してみることができる場所なんて限られているはずだし、ましてやここに住んで六年ともなれば土地勘だって悪くないところまで磨かれているはずだ。私が大学一年生のころは、ムギちゃんは生まれてすらいないんだ。ここは意地だ。考えろ。もうさんざん効率的な暗記や歴史への向き合いかたを説いた頭で。


「……分かった! よし、任せて!」


 もうここしかないだろう、というところへ向かう。これで無理なら一一〇番だ。今すぐそうするべきなんだろうけれど、自分の予測が当たっているかどうか知りたいだけでそうしない。これじゃあ誘拐しているようなものじゃないか。知ったことじゃない、最初から自分の家に帰ることが嫌だからやっているだけだ。逃避行でしかないこの愚かな家探し、迷走しているのは私のほうだ。閃めかなくてもそんなの自明。


「ほんとに?」


「うん!」


 演技で明るい声を出す。私は結局、小田急線の線路沿いを歩いていくだけなのだ。ここから下り方面の生田駅にいたる途中、神社が所有している山の斜面がある。土砂崩れの注意喚起が立っているくらいには整備されていない土と緑の塊が、おそらくは彼女が観ている風景なのだろう。どの道登戸方面には自然物なんてまったくないから、行くとしたらさらに西だ。

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