「えへへ……」


 どうしたの? 痺れてきた背中から笑い声、動いた顔のおかげで花の刺繍が私を撫でる。


「嬉しい」


「ん、そっか……」


 子供は大人のことをよく見ている。少なくとも、大人が子供を見ているよりは深く鋭く。私の吹っ切れたような宣言が彼女を安心させたのだとしたら、言った価値はあるのかもしれない。


「歌……歌いたい」


「歌ぁ?」


 はい。幼児は人の足腰なんて知らないまま楽しげな提案をしてきやがる。崩れ落ちそうなわけではないけど、注意喚起の看板くらい足元に掲げておくべきだろうか。くだらない妄想は置いて、ともかくは五歳児が歌いたくなるような歌を脳内検索。


「この間幼稚園で教えてもらったの、聴いて!」


 ああ、持ち歌はあるのね。


「うん、聴かせて聴かせて」


 やれやれだ。大声で歌われたらどうしようかと思った。駅前、花屋の死体を再び通り過ぎていくなかで、居酒屋へと消えていくサラリーマンの集団の合間を縫う。時勢のおかげで大学生の集まりは少なくて助かったけれど、タイミングによってはふだんと遜色なく混みあう場所だ。


「うん、いくね!」


 眠気も吹き飛んだのであろうムギちゃんは、息を吸い込んでは歌いだす。今までにないくらいに気分が高揚しているのが、掴む手からでも感じとれた。たかが三〇数度の熱なのに、命の証明はしたたかに心を打つ。脈絡のない行動ばかり、やっぱり子供のことは分からないなという限界と、理解ができないからこそ愛おしいのだろうという諦めを吐いた。


 

 ぼくらのまえには ドアがある

 いろんなドアが いつもある

 ドアを 大きく あけはなそう

 ひろい世界へ 出ていこう



「懐かしい」


 思わず素の声が出た。小学校の卒業式で歌ったっけな、『ひろい世界へ』という合唱曲。歌詞の素直さとメロディーの高さから、小学生くらいの子供たちが歌うとさまになる一曲だ。卒業式の定番、とまではいわなくても隠れた名曲としては認知されているのではないだろうか。リズムをとっては身体を揺らすムギちゃんにつられて、リズミカルなピアノを思い出しながら覚えている部分を重ねて歌ってみる。もちろんあたりに配慮もしなくてはいけないし、汗で崩れた前髪が垂れてきては視界を遮る範囲が増えてきている。ちょっと気がかり。



 ぼくら 青い実

 ぼくら 赤い火



 ここの部分好きだった。彼女も同じらしく、ボリュームが一段大きくなる。そして、このあたりで気がついていくのだが、ムギちゃんの歌はお世辞抜きに上手だ。歌唱力について詳しいわけでもないし、音楽なんて聴くばかりでたいした才能もない私。それでも、だからこそこんな素人でも明らかに分かるくらい、お手本のようなリズムとメロディーをこなしているのはとんでもないことだ。



 手と手をつなぎ

 心をつなぎ

 歌を 歌を 歌いながら――



 フルコーラスを存分に歌い上げたムギちゃん。すれ違った数人からは多少の目線を感じたものの、特に彼女の気分は害されなかったようでなによりだ。彼女が将来なにを思うのかは分からないけれど、私としては、彼女の生まれてきた理由の一部は、間違いなく歌うためにあるのだろうと確信した三分間だった。肺活量こそまだ幅が効かないようだったのが惜しい。あと一〇年かそれくらい未来に出会えていたのなら、もっと素晴らしい歌が聴けたのかもしれないのに。


「すごいね上手だね。歌うの、好き?」


「うん、大好き!」


 ただ、この天真爛漫は技術では得られないものなのだから、得をしたとも考えられるだろうか。芸術にはついぞまともな創作者として関われなかった私だ、ここ数年はわずかに手を動かすこともあったけれど、最近はめっきりご無沙汰だ。ムギちゃんの喉はきっと、純朴さも技巧もない私の腕一〇本くらいの値打ちがあるだろうに。

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