黒い地面をぶん殴って

「お姉ちゃん、降りる! 降ろして!」


「分かった、じゃあ一回お水も飲もうか」


 ふーっ軽くなった助かった。一キロくらいは歩いただろうか、これ以上は耐えられないとなったらこちらから言いださなければならなかっただろうが、なんとか回避できた。短い手足を駆使して身体を支え、ペットボトルを抱えている五歳児の横、肩甲骨の点検とばかりに体操をする私。さて、ここから歩いていくにせよ、手を繋いでいかなければなるまい。手汗をかきがちな人間としては、こういう瞬間どちらの手のほうが差しだすにふさわしいのだろうかと考えてしまうからよくない。なぜなら気にしたとたんに溢れてくるのが手汗だから。


「はい、じゃあ手繋いでもう少しだけ歩こうか」


 うん! こちらを振り返ったムギちゃん。私の手へと伸びる小さなシワの地図。手の平には人生のすべてが記してある、そんなことを彼は言っていたな。「それって手相とかを信じてるってこと?」と尋ねた女は意外に可愛いところあるんだなって笑っていた。どこでこんな話をしたんだっけ。河川敷での散歩だろうか、部屋の中で寝転がっていたときだろうか、それとも新宿のレストランで珍しくめかし込んで食事をしている最中だったっけ。とにかく私の含み笑いに、彼は真剣に答えたのだ「寂しさを感じるほとんどの瞬間、ぼくたちの手はなにも握れていない。手だけが記憶しているものが多すぎるんだ」と。いつも冗談ばかり言うか、または不機嫌に口を閉じているばかりだったくせに。急にまじめなことを言ったと思ったら理解できるようなそうでもないようなことを口走る。困惑しているこちらなんて気にすることなく、恋人はそっと私の手をとった。考えてみれば、彼は手をとるときだけはやたらと柔らかい握りかたをした。臆病な男だった。自分がなにかを壊すことに怯えすぎて、壊して欲しい私に気がつかないくらいには。


 風が吹く、刹那、風景を取り戻す私。


「あっ!」


 叫んだのは歌を歌うための喉だ。こちらに伸ばした手が即時引っ込められた。無念にも飛んでいったのはムギちゃんが後生大事にしていた刺繍入りの黄色い帽子。私がちょっと預かろうとしてもなお、彼女が渡すまいと抵抗したポリエステルがアスファルトへと転がっていく。


「待って!」


 先に走りだしたのはムギちゃんだ。過去に足首を掴まれていた私は、スタートダッシュで出遅れる。路地には人影はなくこのあと起こりえることは私しか知り得ないことだった。この路地は私がさっき職場から駅へ向かうときにも通った。花屋へ寄るのだと心躍らせながら前髪を掻き分け、そして、カラーコーンと割れたマンホールを避けた場所なのだ。


「ムギちゃん!」


 マーフィーの法則といえばいいのか、黄色い帽子はその割れ目の入ったマンホールの上で停止した。風が弱ければ、あるいは別の角度から吹いていれば、コーンが止めてくれるなり路肩にでも降り立っただろうに。今まさに、暗闇がぽっかりと口を開けてひとりの女の子をものにしようとしている。狙われている水面の小魚のように、自分へ近づく死をあの子は理解していない。不格好ではあるものの、必死に母親からの贈り物を追っている。


「止まって!」


 言うだけで終われるもんか! やっと動き出した足、馬車馬のように働いてみせろ! これでも中高と運動部、しかも弱小とはいえ陸上部だったんだぞ! 前髪が邪魔をする、大げさに腕でどかす、ドアを開くみたいに大げさに。


 コンバースがけたたましく黒い地面をぶん殴っては、傍若無人に幼児のもとへこの身を運んだ。進むというより突き飛ばされるというような表現が正しいだろうか。私の一歩は彼女のそれの何倍もある。暗闇へと通じる穴までもう一歩、亀を追うアキレウスはどんな気持ちだっただろう。少なくとも私には、準備体操で腱を伸ばす時間はなかったから、下半身の細胞で急激な振動が弾けた。


「――!」


 うぉ! だなんて間抜けな声。ガクンと身体が慣性でしなった痛みに、気遣いなんてできなかった。マンホールの手前数センチ。小さな足はラインをはみ出すことなくそこにある。オンユアマーク、セットは一生かかってくれるな。ほんのちょっと駆けただけ、肩で息をしてしまうとは情けない。元から乱れていた髪の毛がさらにぐちゃぐちゃになった、そんな気分。せっかくセットしたのにね。


「ま……間に合った……」


 何度瞬きをしても、ムギちゃんはまだここにいる。円三分の二ぐらいのところでクレバスを形成した黒い蓋は、餌を逃した食虫植物みたいに不気味だった。その上にちょこんと鎮座した帽子はもうはためくことなく、ただじっと拾われるのを待っている。花の刺繍、甘い香りは餌として子供を吸い寄せるかのようだ。


「手」


「え?」


「……手は離しちゃダメだって、あの人が言ってた……」

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