意味のないまっすぐさ

 デジャブ。というには先日より語気が強すぎる。私の前方に授業を展開していたアキ先生を見れば、彼女も生徒から飛んできた怒号に怯みきっている。声の主は考えるまでもなく、高校受験生の男の子、カズキくんだ。


「暗記のしかたとか言われたって、覚えんのは俺だろ? 投げてんのと同じじゃないか!」


「ご、ごめんね……でもね……」


 アキ先生がたじろぎながら続けた逆接は、彼を一段と憤怒させる。それなりに講師陣や生徒たちの会話によって騒がしかった教室は、一転彼の大声によって水を打つ。物理的にアキ先生とカズキくんに近しいのは私であるから、前回よろしく介入するしかないだろう。


「ちょっとトモエちゃん、三大改革のところ覚えてて、あとでテストするから……ごめんね」


 事態が事態なだけに彼女も素直にうなずいてくれる。


「分かりました」


 すぐさまもうひとりへ。


「マチ」


「大丈夫」


 ノートに走り書きをしているパーカー足だし野郎は、手で一度歴史の流れをなぞることで記憶を定着させようとしている。問題ない、私が受験のころにやっていたひとつの暗記法だ。


「それより、ぼくが止めにいこうか?」


「やめとけ」


 意気揚々としているマチ。


「だってみんなテスト近いみたいだしさ」


「みんなにはお前も含まれてんだ。とにかく、私が行ってくるから……」


 見ればうつむいてカズキくんの怒りを受けとめているアキ先生が、真っ赤な顔から涙をこぼしているのが見えた。


「やっぱりまだ分かりにくいかな……?」


 講師として生徒の前で泣くことはまったく褒められない。私自身があまり泣きべそをかくタイプでもないから、強くも言えないか。幸いにして彼女の泣き顔はパーテーションの関係でほとんどの生徒からは見えないはずだ。声でバレてしまうだろうが、アキ先生からすれば多少の救いにはなるだろう。


 などとやっていたら、しびれを切らした子が現れた。


「え、ちょっと」


 アキさんのもとに歩みよっているひとりの女子生徒。赤いメガネの位置を直してどこか気合を入れたらしい彼女は、ゆったりと、舞台の真ん中に慣れている足どりでカズキくんの視界へ突入する。アキ先生と彼のあいだに立って、ブルージーンズとベージュのセーターという私服姿はポツリと語る。


「……ねえきみ、たぶん謝ったほうがいいよ」


 チカさんは憮然と、座ったままのカズキくんを見下ろした。マチよりも早い、バレンタインデーの前日に行われる第一志望の受験日まで数日と迫った彼女。なにがそんなに彼女を動かしているんだか。


「……騒いで申しわけないです」


 年上の女子生徒にこうもダイレクトに詰め寄られたら、普段は品行方正であるところのカズキくんなら素直に従わざるをえまい。ハナさんが爆縮型にストレスに蝕まれるタイプなら、彼のほうはときおり爆発させて周りの人間に被害を及ぼすというタイプだろうか。たしかにカズキくんのような暴発を招いたときには、冷や水をかけるという対抗策は有用だ。


「そういう問題じゃないの。カズキくんだっけ、きみは誤解をしているよ」


 感情をかき乱されてシクシクと両目を擦っているアキ先生だが、あんたの役目はこの場を穏便に済ませることだ。頼むから生徒同士の喧嘩なんてものはこの時期に起こさせないでくれ。


 女子を泣かせた男子をまた別の女子が諫めているような構図。何度か義務教育課程で見たことがあるような気がするが、そのなかに大人が混じっているとめまいがする。ともかくは立ち上がってチカさんを遠ざけなければ。


「イズミ先生、このテキストの一三四ページ、大問三の(二)の答えは?」


 カズキくんの手元に広げられたテキストをパラパラとめくり、適当なところを指さして、チカさんは腰を上げたばかりの私に問うた。まさかあの流れでこちらに弾が飛んでくるとは思っていなかったから、なんのことだろうかと固まってしまう。


「へ?」


「答えてください」


 なんで私にもちょっと強い調子なんだよと文句も言いたくなったが、チカさんのピンと伸びた背筋がそれをさせない迫力を備えている。


「……いや、ここからじゃ見えないから……見せてよ……」


 なんなんだこの状況は。途方に暮れたい。どうして中学三年生の冬期講習用のテキストから、講師の私へ問題を出されているんだ。


「嫌です」


「……どういうこと?」


 チカさんの狙いがさっぱり分からないが、問題を見てもいないのにその答えが出てくるなんて裏技は教えたためしがないぞ。そんなものがあるのなら私だってもっといい大学を出ていただろうに。


「じゃあアキ先生は?」


 アキ先生も目の前にチカさんの背中があるから、テキストに書いてある問題を読めるはずもない。ここにどれだけ社会科が得意な人間が来ようとも、その問題について知ることができなければ端から端まで解答不能から逃れることはないだろう。


「……うぅ……うう……」


 鼻をすすってばかりで、チカさんからの問いにも答えられないアキ先生。気の毒に。生徒に怒鳴られたと思ったら、自分がみてもいない生徒から無茶ぶりをされる始末。泣きっ面にチカというわけだ。


「ほら、答えて」


 豪胆な言い草をする子だ。あの文化祭の一件からかなり芯の強い人だと分かってはいたつもりだったが、ここにきて大人にもそういう態度でいられるのは感心に値する。自分の不可解な行動に、ここまで堂々としている人間は年齢に関係なく貴重だ。危うくもあるが。


「……チカさん、もういいんじゃ……」


 私の言葉にも赤いメガネは首を振るだけ。黙っていろということだろうが、そうはいかないだろう。続けて彼女を制止させる言葉を捻ろうとしたが、それよりも先に、しゃくり上げるアキさんの声が絞りだされた。


「……桜田門外の変……」


 今の時代にここまでドラマチックに井伊直弼が殺されることもないだろう。チカさんがうなずいたところを見るに、アキ先生は彼女から出された急降下爆撃を見事に回避したらしい。カズキくんも、なにも見ないままページと問題番号のみという情報で正解を言い当てた新人講師に少しだけ目を開いた。


「じゃあそこから五ページめくって下から三問目は?」


 チカさんの問いに今度はすぐさま返答。


「五箇条の御誓文」


 驚くべき曲芸。そのあともチカさんの問いかけに、しかも問題文すら読まれないその連打に、アキさんはつぎつぎと正解を叩きつけていく。泣きながらというのが格好のつかないところだが、カズキくんの怪訝そうな顔はみるみると脅威を覚えるそれへと変貌していった。


「いや~、本当にいるんだね。テキストの回答を全部覚える単細胞さんって」


 囃し立てるマチ。たしかに問題文を教えてもらえば、中学生向けの参考書に全問正解していくことは可能だろうが、ページと問題番号まで暗記するなんて。そんなあまりにも意味のないまっすぐさを持っている人間はそういないだろう。

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