介入のしどころ

「……だからなんなんっすか……だってそんなこと、俺にはできないし……」


 呆然とチカさんを見つめている中学三年生は、かろうじて反論らしいそれをくりだした。そしてそれは正論といえるもので、たしかに彼が完璧な暗記をものにしているならまだしも、別の立場の人間がそれをひけらかしたところで役には立たないだろう。


「でもカズキくんがこのあいだ怒ったときは、アキ先生がきみの質問にうまく答えられなかったんだよ? 今日はそんなことなかったんじゃない? アキ先生はきみになにを言ったのさ」


 少し態度を軟化させたチカさん。なかなかやるなと、力量からしてこの場を彼女にゆだねるのも悪くないなと思わせるほどジャストなタイミングで優しい声色へ。


「……暗記のしかたについて……」


 うん。分かっていたよとメガネを再度直した彼女は、もう完全に諭すような調子で話しはじめる。講師が生徒の心をある程度誘導するようなコミュニケーションが取られるかは、才能に大きく左右される。少なくともアキ先生にはしばらく無理そうだし、私だって新人のころには習得できなかったテクニックだ。


「そう。だってね、アキ先生は私とあっちにいる真っ黒な人といっしょに夜遅くまで自習してたんだよ。青空教室的な感じで」


 たしかにこのあいだも、アキさんは女子高生ふたりと混ざってなにかをしていた。私がとっとと家に帰り、愛するハナさんの料理にありついているころ、どうやら彼女らはしっかり勉強をしていたらしい。講師まで巻きこんで結構なことだが、それならだれかの家でやればいいのに。


 まあ、夜空の下でそう集まっているのも、彼女らの人生にとってはかけがえのない一幕なのかもしれないが。


「アキ先生はね、今度はなにかカズキくんに有益な授業をしてあげようって、詳しく事象を解説することはイズミ先生に敵わないから、せめて暗記のしかたくらいは伝授できるんじゃないかって自分で覚えていったんだよ」


 なるほどねとこっちが合点を得たところで、すでに事情を知っていたマチは偉ぶるように両の手を組んでいる。それならひとことくらい教えていてくれてもいいだろうに。敵を騙すならまず味方からとも状況が違うだろうに。


「……スミマセン……」


 そっぽを向いたカズキくん、カタカナ発音。チカさんはその態度にどこか感じるものがあったらしく、逃すまいと一歩彼へと距離を縮める。かなり泣き止んできているアキ先生もそこまではいいと手を伸ばすが、背中への神経を遮断しているかのように、チカさんは気にせず言葉を吐きだした。


「カズキくん、あのね、人は努力次第で……!」


「チカさん」


 気持ちは分かるが、ここで介入のしどころだろう。


「もうそれくらいでいいよ。ありがとう」


 影でアキ先生が努力しているということを伝え、それによってカズキくんが心を入れ替えると期待したいのは分かる。けれども、人はそんな簡単に自分の立場を変更させることはできないし、価値観にいたってもそうだ。


「……分かりました。すみません」


 もちろん、チカさんが自分の言葉で他人へアプローチすることがまずいことだとは思わない。メリさんとの衝突があった文化祭のころから目覚ましい勢いで頭角を現した地金は、きっと彼女の武器になる。確信できる一件だった。


「謝る必要はないよ。マルつけの続きしておいて」


「はい」


 チカさんが座席へと戻っていくのを見送って、私は気まずそうな空気が漂う生徒と先生のあいだに割りこんだ。とうぜんながらアキ先生への慰めなんてものはここでしない。この前と同じだ。今一番必要なことは、カズキくんの言ったことが完全な悪なのではないか、という疑念を取り払うことだ。


「カズキくん、きみは間違ったことを言ったわけじゃない。自分が欲しいと思う情報を求める権利が、きみにはあるんだから」


 かがんで彼と視線を合わせようとする。とっかえひっかえに他人に詰め寄られるのは堪えるだろうから、なるべく圧力を感じさせないようにまずは姿勢をなんとかしたわけだ。夏にムギちゃんという五歳児に向かい合ったときにも似たようなことをしたが、彼の座高に合わせるのにしゃがむ必要はなかった。


「たしかに騒いだのは悪かったですけど、ここまでのことになるとは思ってなかったです。すみません」


「いやね、まったくだよ。ごめんね」


 謝っているんだか弁明をしていんだか分からないようなことを言っている彼は、表情でも不快感をあらわにしている。彼にも誤解があったのだろうけれど、アキ先生がひとつ覚えに、通り一辺倒な解説を続けてしまったのだろうから、彼が抗議することになっても不思議ではない。ただ、私の授業のときにも、そしてほかの講師のときにも彼が声を荒らげることはないのだから、アキ先生という人を見て声を上げていることもたしかだろう。あまりいい傾向ではない。


「どうする? 今からでも私がきみの授業をしたほうがいいかな?」


 カズキくんも加われば四人を同時にみることになる。自分でもうんざりするけれど、まあこういう尻拭いを率先してやるのも、給料分だろう。アキ先生を彼から外すかどうかの相談も引き受けた身なのだ。この結果に知らぬ存ぜぬで通すつもりもない。


「……いえ、大丈夫です」


 漢字で言った声。多少は頭も冷えてくれただろうか。じゃあ、私の出番はここまでだろう。


「カズキくんは今、人生で初めての受験を経験しているところなんだから、いろいろと起こってもしかたないんだよ。それだけは、頭のなかだけでも分かっておいて」


 さてと、ほんの数分。されど数分だ。髪の毛を摘んで気を紛らわせている中学生へ別れを告げて、きちんと声が震えていない状態へと戻ったアキ先生へ向き直る。いろいろと指導やフォローをしたいところだ。なんだって自分でこの事態を収拾しようとしないのか。とかそんな文句も言ってやりたい。個人的に不愉快だと思っているわけでもないが、だれかに助けてもらうよりも先に、自分でまず動くのが働く人間の前提条件だ。そこに、年齢も経験も関係なんてあるものか。


「アキ先生、あとはよろしくお願いします」


 威圧はしない、しかし笑顔も作らないでそう言った。


「……はい……!」


 アキ先生は決意を新たにという目でその身をカズキくんに寄せていく。ふたたびの騒動となってしまったから、ぎこちなさも凄まじいことになっているふたり。それでもなお、ともかくはそれを払しょくするべく話しはじめるアキ先生も、なかなか根性が座っている。


「……と、とりあえず授業の続きをやろうか。えっとね」


 根気というと、彼女がテキストのページや問題、その答えを暗記したという点においては前代未聞もいいところだ。それで指導効率がどれだけよくなるのかという部分に疑問が残るが、生徒たちにここまで人間はやれるのだぞと示す、いいお手本にはなるだろう。


 そもそも、こんな補習塾にいる人員で、「言ってやらせる」より「やってみせる」を実践できる講師なんているわけがない。私だってそこまで生徒に親身になっているかというと簡単にはうなずけない。


「先生、細川勝元から守護権限を与えられて東軍に寝返った大名になにか覚えかたって……」


「せんせー、セーブル条約とローザンヌ条約の違いってなにー? たぶん説明貰ってるけど忘れちゃったー」


 すぐさま質問に対する答えは出てくる。疲れるまでその問いに答えるしかない。短文ではなく、彼女たちの思考を指揮するよう、鮮やかに。


 たとえ後輩の講師からでも、学べるところはあるものだ。マスクの内側にこもった熱を、噛みしめるような夜だった。

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