不気味な森

 その日、アキ先生が教室の清掃をしているタイミングで、塾長へ彼女をカズキくんの担当から外したほうがいいと提言した。


 彼女の進歩はしっかりと一歩ずつ、疑いようもないものだった。しかしその歩みは、この冬の彼をみるに能わない。少なくとも私はそう判断した。


「まあ、そうなりますよね」


 そして、この提案が通るであろうことも見越していた。社会科関連、さらには新人を指導するという点においても、この塾ではトップクラスの発言権を持っている自覚はある。鶴の一声を発するべき立場なのだから、そのタイミングを逃してはいけない。奇しくもマチの第一志望受験日と同日である、神奈川県公立高校入試まであとわずか。カズキくんへ最大打点を出せるのは、現時点でアキ先生ではなく、ほかの先生だ。


「でも、アキ先生が完全に間違った指導をしているというわけでもないです」


「それは分かっている……つもりです。イズミ先生、ご心配なさらずに」


 ほかの講師陣も出払っている控え室。小さな窓からは外を走り抜けていく車の音が、わずかながら聞こえてくる。


「カズキくんはアキ先生のことが嫌いなんですかね?」


 そんな単純すぎる質問は、他人が答えるには困難なテーマだということが分からないのかこいつ。


「さあ? でも本当にそうなら、彼はとっくになにかを訴えていたと思います」


 あらかたの片付けも終えて、そろそろ帰るべきかという時間。夜も更けてから家に帰って、普段ならたいしたものも食べずに寝てしまうところなのに、ハナさんは今日もご飯を作って待っているのだろう。姉弟揃って感情は表面に出てくるのに、考えはなかなか言葉にしてくれないから困る。これが環境や血縁による似姿なのだと言いきってしまってはいけないのだろう。でも家族とかそういうものとは関係なく、彼女らはその点、よく似ている。


「お疲れ様です!」


 清掃も終わったようで、私が控え室を出るタイミングでアキ先生も帰り支度に入っていく。今日もいっしょに帰るべきだろうかと考えたが、適当に理由をつけて先に帰ると告げておくことにした。彼女はそれにうなずいて、それから居直った表情で塾長へ話しかける。今日の騒ぎについて謝罪をしているのだ。途中私にも詫びが入ったが、気にしないでと手を振った。生徒がいない塾内というのは活気がなくてよくない。


 あまり失敗を引きずらないでいてくれたほうがいい。しかし、泣いて仕事が手につかないという状況は、周りに迷惑をかけるから、今度からそうならないよう努めなさいと伝えはしたが。


「私、次にカズキくんを担当するときは……ちゃんとやります!」


 塾長は困ったように笑ってこっちを見た。私はその視線をないものとして、アキさんに強くうなずいた。


「そのときが来たら、がんばって」


 冷たいだろうが、彼女の成長のためにカズキくんの成長を阻害するわけにはいかない。このシーズンに飛躍的な成長をしなくても、来年にはまたひとつステップアップを実現してくれるに違いない。アキ先生は未熟だ。そう表現できるのは、この先に円熟を実現させうる才能を宿しているからだ。


「イズミ先生みたいに、だれにもできないような仕事が、できるようになります」


「はい?」


 なんのことを言っているんだろうかと固まってしまう。そういえばこのあいだの夜にも同じようなことを言われていた。まあ、どんな組織だろうとよくある話だ。そこに先んじて所属していた人間が、あとから来た人間には欠けてはいけない絶対のピースに見えてしまうという錯覚。極端なワンマン体制でもないかぎり、いやそうであっても、代わりのいない組織なんてあるわけがないのに。


「アキさん、あのね。べつにだれにも代わりができないようなことをする必要もないし、そもそもそんなことは不可能だと思うよ? それよりもずっと大切なことは、手いっぱいのだれかの代わりになって、骨を折ってあげることなんだよ」


 靴を履きながら、そばに立っているアキ先生に言った。我ながら説教臭いことを言ってしまっているなとうんざりしながら、普段履きの数代目コンバースに足を預ける。ダッフルコートの野暮ったさに若干の安心感を覚えつつ、言葉を咀嚼している最中のアキさんとのあいだを埋めるために鼻をすすった。


「あー、あと。自分の代わりなんていくらでもいるんじゃないかって不安になったら、そのへんにいる人に頼んでみなさいな。『代わってくれ』って」


「……ハイ……」


 彼女までカタカナ発音。まあしかたない、いつもなら私は適当にその場をしのいで自説をもっともらしく語るだなんてことしなかったのだ。アキ先生もどう反応していいのか分からないのだろう。けれど、こればかりは言っておかなければならないと、そう思ってしまったのだ。許してほしい。


 だれもが代わりになれないような絶対的な存在に人はなりたがるけれど、だれかの代わりに仕事をするということのほうが、ずっと周囲の人間を助けることになる。世界史をだれもみることができない塾で、ほかの講師陣の代わりに私がマチを担当することになったのも、そういう因果が働いているのだから。


「もしあなたが一生懸命に働いているんなら、だれも交代したいだなんて言いださないから」


 多少なりとも私を尊敬してくれるのならば、私の仕事を代わりにできるようになるべきだ。それが、仕事を身につけるということだ。



 べらぼうな寒さに関節から凍っていきかねない夜空を見上げ、どこにどんな星座があるのだろうかとロマンティックに生きようとする。地上のちんけな悩みごとや雑務に愛想を尽かせたのなら、より広大な世界に思いを馳せて相対的に無としてしまうのが解決策としては健全なのだ。しかし残念ながら、その夢は叶うことはない。


 塾の目の前で電柱に寄りかかっているひとりの影。まあ、私を待っていたんだろうが、こいつから私のもとへなんらかの情報を伝達するときに、いい知らせを受け取ったためしなんてない。


「なにやってんの」


 白い肌を黒い洋服で包んでも、吐く息ばかりは誤魔化せない。世に見せびらかせた白い脚は、寄りかかった体重を描くように曲線だ。


「いやね、ちょっと先生に話があってさ」


 ニヤリと笑うマチ。黙っていればそれなりに見られた人間だろう。受験へ真剣に取り組んでいるようなときとは違い、ひょうひょうと話すコウモリ野郎は、背後の森よりずっとざわめく不気味な森。


「ぼくとデートしよう」

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