決戦はバレンタイン

 マチとふたりで歩いていると、いつだってむこうからなんらかくだらない話を振られては、私が低体温な返答を重ねていくというルーティーンをくり広げることになる。今日だってその例に漏れることはないだろうと思っていた。けれども、今日のマチはいつもと少々様子を違えていた。口数は少なく、不機嫌というわけでもないがやや視線がうつむきがちで、信じられないことにアンニュイな表情まで浮かべている。


「で、話ってなんなのよ」


 真っ暗に帳を降ろした大学の校舎群を尻目に、ぶっきらぼうないつもどおりを貫いた。暗転した空の下でいつまでも外をほっつき歩きたくもないし、帰りたいのだという息吹をしっかり肺から吐きだす。


「……ねえ先生。ぼくたちって受験が終わったらどうなるんだろうね」


 そうかい、その手の話かい。


「どうもこうも、大学に通うんじゃないか?」


 女心が分かっていないとはこのことだろう。しかしながら、相手の気持ちを汲み取るということと、それに即して行動を変容させるということには地球からベテルギウスくらいの距離に等しい断絶がある。自分の思いどおりに動かない人間に「分かっていない」と冠を被せるのは、それこそ思い上がりというものだ。泣きだしそうな女心や男心は、分かられないのではなく相手にされていないだけなのだ。


「やだなー分かってるくせに、ぼくと先生がどうなるのって話じゃん。ぼくは塾を辞めるだろうけど、先生はそのまま来年も働くんでしょう」


 ただの事実をなぞるだけのコミュニケーション。それでもこいつにとっては必要な儀式みたいなものだろうし、少しくらいは付き合うべきか。私にとっては何度目かの生徒の卒業も、マチにとってはたった一回の卒業になるのだ。


「そうなるだろうね」


「そうなったら、ぼくたちはあんまり話さなくなるのかな……」


 暗闇から手を伸ばすような枝が道路に飛びだしている。車もまったく通らない坂の路地。民家が立ち並ぶ区画に突入しても、勾配はまったく変わらず前のめりに歩くしかない。パーカーは自分の残り授業を数えながら、絵筆を振ったように散りばめられた星々を眺めた。


「ぼくはずっと先生と近しくいたいよ」


 感傷的な物言いを、ずいぶんと明るい調子で言い放つ。なるほど、マチはそれなりに不安を感じているらしい。それも受験の結果にというわけではなく、もっと小さな、私にとってはどうでもいいような私に、想いを募らせて。


「べつに引っ越すわけじゃあるまいし、となりに住んでいるんなら感傷に浸るようなことでもないでしょう」


 感情的な話に理屈を持ちこんでしまうのは悪い癖だ。山を下りきると見えてくるセブンイレブンのくだらない光もそうだそうだと私を責める。マチも顔を歪ませているのは、私の調子が少々冷淡に寄りすぎているからだろうか。


「まーそうなんだけどさー」


 仕事の直後、しかもそれなりにストレスフルな決断をした直後なのだから許してほしいところなのだが……。しかしまあ、マチが私をどう思っているかということについて、私が無下にしつづける権利もないだろうとため息を吐く。自分がされて嫌なことを、他人にするもんじゃないし。


「自分が先生のこと好きじゃなくなったら、やだなって思うんだよね」


「まあ、そういう気持ちがあることは理解できる」


 私だって永遠だと思いたい愛を抱いたことくらいはある。永遠というものがこの世界にないと分かっていても。そして意識的に言語化されていなくても、過去を振り返って見えた自分がそれを望んでいたと分からないほど、狭い心を持った人間であるつもりもない。


「先生はどう? まだあの人のことが好き?」


 そう問いかけるマチの心が少しだけ傷つくのが分かった。


「どうだかね」


 本心だった。だからあんたはそんなに浅い呼吸をしなくてもいい、と思った。


「じゃあさ、この世界に『かけがえのない人』っていると思う?」


 その定義による、とつまらない返答をしてもしかたがないか。とはいっても、ついさっきそんな話をしてきた直後なのだし、一貫したことを言っておくべきだろうか。しかし、文脈によって言葉の持っている意味はさまざまな模様を写しだす。この場合、マチになんと返すべきかという問題は、非常にむずかしいものだった。


「あんたの世界には、いてもおかしくはない」


 これもまたあくびが出そうなラリーだ。マチも煮えきったほど煮えきらない私の態度に失笑をこぼす。それもまた愛してくれなければ、まあ、こいつもその程度なのだと思えるが。はてさてどうだろう。


「でも現に先生は塾でかけがえのない存在になってるじゃん」


 口で笑った。


「それには賛同できないがな」


 鼻で笑った。




「さてと、先生に見せたかったのはこれなんだよね」


 今までの話がしたかったわけではないのか。変に勘違いをしていた自分を押し殺して、マチの手の鳴るほうへ路地を曲がる。誘われた細道が私に身慣れた殺風景を届けてくる。そこは八月の終わりに私がムギちゃんの手を掴んだ路地であり、同時についこのあいだ、ハナさんのカバンをひったくった犯人が姿を消した路地でもある。


 マチはすたすたと道を歩いていく。すぐ近くにある小田急線の駅からも喧騒はほとんど聞こえてこない。個人経営のいくつかの店は、緊急事態宣言が出ている二月上旬の今であっても夜遅くまでの営業を続けているらしいが、駅前のチェーン店はそのかぎりではないということだ。この路地にある居酒屋はどれも閉まっていて、明かりも心なしか少なく、不気味といえばうなずくしかない遊園の市街だった。


「こんなこと、夜じゃないとできないね」


 マチが立ち止まったのはマンホールの前。夏のころには割れてしまって、周囲をカラーコーンが取り囲んでいる状態だった。ムギちゃんが奇跡的にそこへ黄色い帽子を飛ばしてしまったから、柄にもなく全力で走る羽目になったんだった。今度はマチがそこへ吸い寄せられているが、いったいなにをするつもりなのだろう。


「先生は、このあいだミズキっちを襲ったストーカーがどうやって姿を消したんだと思う?」


 しゃがむマチ。


「……そんなこと分かんないわよ。あんたも見てたでしょう? 本当に忽然と、マジックみたいに姿を消したんだし」


「でも、マジックなら種があるはずだよ」


 金属製であろう蓋の端に指をかけるパンダ野郎。なんというか、地下の世界って害獣とか害虫が大量に住んでいるイメージがあるから、あんまり開けるところは見たくないのだが……。しかしいくらマチとはいえ、こんな細い身体じゃ分厚い金属を持ち上げるなんてことはできないだろうから、いらぬ心配ではあろう。万が一マチがサイボーグ的な強化を施されていたとして、マンホール蓋には「うすい」と書かれているということは、まだ「おすい」よりはマシなのだろう。そんな心配をまったく意に介していないマチは、自分の推理を展開する。


「まさかぼくらから見えなくなるまで、つまりは路地の突きあたりまでものすごいスピードで走れるわけもないし」


「単細胞な回答ではないだろうな」


 そんな話をあのときもした。


「だからさ、調べてみたわけだよ。受験勉強の合間にさ」


 マチは勢いよく腕を引いた。私が声を上げるよりもさきに、マンホールの蓋は片一方に体重を預けるよう、支点をうまく使って立ち上がる。マチの馬鹿力に目を飛びだしてしまいかねない私は、この場面をだれかに見られるのはまずいと悲鳴に似たそれを喉の奥にしまった。おかげでむせて咳をする時間が必要になった。


「これ、プラスチックでできてるよ」


 私の驚愕にせせら笑いを投げるマチは疑いを晴らすように、マジックの種を明かしてくれた。そうだよな、いくらこいつでもマンホールをこう簡単に開けることなんてできやしない。


「……これって……」


 あんまり穴には近づかないようにしつつも、怖いもの見たさに少しばかり穴の中を覗く。時間の関係上ただの黒が見えるばかりで、おぞましいものもおもしろいものも発見することはできなかったが。


「ぼくがやったんじゃないよ」


「だろうけど……」


 いくら山育ちとはいえ、大量のなにかが噴きだしてくることを想像すると、身の毛がよだつ思いになる。一匹ゴキブリが出てきたならばそれを殺すことにためらいはないが、何体も同時に攻撃を仕掛けてこられたらさしもの私も陥落だ。ぶっちゃけストーカーより怖い。


「照らそうか?」


 笑うマチ。


「やめて」


 真顔の私。


 それはさておき。他人様に目撃されることのないうちに、マチはプラスチック製だという蓋をもとに戻した。ためしに踏んでみたが、なにか加工をされているのか、あるいは靴底では案外人工物の素材は識別しにくいのか、視覚的錯覚か、ともかく言われなければ石油を固めたものだとは思えないほど頑丈な反発が返ってくる。


「このマンホール、直されてなかったってことなんだね」


 川崎市はマンホールひとつを取り替えることもできないのか。なんて嘆いている場合でもない。あのストーカーがこんな大掛かりな準備をしていたとするのなら、ダンチの言ったように、相手は素人に見せかけた玄人なのかもしれない。しかし家に襲撃をしたやつがあのストーカーと決まったわけでもないし……いや、このさい同一人物としたら理屈が通りやすいだろうか。


「……『ゴールデンスランバー』かよ」


 暑くなるまで考えても、冬の大気はそんな思考をすぐに冷やしてしまう。そういうわけで、まだこの街に開いた風穴は塞がってないらしい。市政の停滞も著しいことの証明だ。


「で、あんたは勉強もしないで、現場検証をしていたわけね」


 呆れたもんだと思いつつ、マチがおとなしく犯行予告なんてものを喰らってじっとしているはずもないと納得してしまう。そうだ、こいつはこういうやつじゃないか。だから、私は顔で「でかした」とどこか悪ノリを見せてしまっているのだろう。むこうからはどう見えているのか。ともかくマチはその動機について語る。語ってくれていっこうに構わない。


「ミズキっちを泣かせたっていうのが大きいけれど……たくさんご飯もお菓子も食べさせてもらっているし……」


 腕で鼻を擦ったパーカー。こっちが咎めないことに多少の意外さを感じているようではあるが、やりづらそうにしていたのはこの一瞬だけ。不敵な笑みを取り戻したバカは、同じくバカな私といっしょに歯を剥きだしにしてやるのだ。


「ぼくも舐められたもんだなと思っただけさ。受験直前だからって無茶はしないなんて、おもしろくない人生選べるわけがない」


 好奇心は得がたいものだ。少なくともほとんどの大学の合格通知より。しかも受験と違って、方法論すら確立されていない。


 こんな選択なんてしたら危険が伴ってしまうのは承知している。が、こっちだって頼るべき公権力になかば見放されているのだから、やぶれかぶれになったっていいじゃないか。


「決戦はバレンタインだよ。むこうはゲームの主導権を握ったつもりでいるらしいけど……」



 二月一四日、もう一度来る。



 あの言葉が本当だとするのなら、いよいよもって私たちも策を練っておくべきなのだ。むこうが周到な準備をしてくることが分かった以上、徒労となる懸念もない。私たちは自分たちの身を守るために戦うしかない。


「今度はこっちから仕掛けてやる」


 マチが風に揺られて髪をはためかせる。こいつが斜に構えて意思を固めたとき、決まって世界はその味方をしてみせる。マチは追い風であろうと向かい風であろうと、空気の流れを自分の手中に収められるという特異な体質を持っている。


 この黒いパーカーは風に吹かれるのではなく、まとっているのだ。そう、人はそれを台風の目と表現する。


「それには乗るから、明日から朝、毎日私の部屋に来なさい」


 マチはハナミズキさんを守るつもりだ。そうするべきだと思う。私はその提案にうなずいた。そしてうなずくからには、自分なりの責任を取るべきだと思ったのだ。


「お、ついにぼくも先生と半同棲かな?」


 黙れクソガキ。


「勉強から逃がさないだけよ」


 顔を歪めた私は、面倒な仕事も増えたもんだと頭を抱えた。

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