言ったとおりだったでしょ?

 二月上旬にしてはやや暖かい昼がいくつか流れ、それでも夜にはしっかりと寒さが市街地に降り積もる一週間。カズキくんをはじめとした中学三年生の子たちもいよいよ追い上げという段階。マチは毎日のように我が家にやってきては、朝から文系科目の質問を私にぶつけてきて、寝ぼけながらもそれに答えていくという生活。大学のテストからも解放されたのだというハナさんが家事などを引き受けてくれなければ、きっと荒らされたときと似たような部屋になったのは疑いようもない。もちろんマチが滑り止めの大学を受けにいっているあいだは平穏が訪れたのだが、底なしの体力を持っている白黒パンダはゲン担ぎにまとった制服姿のまま、甘いものを調達し私のもとへすぐに戻ってくるのだったが。


「ねえ先生! 今日はキューバ危機が選択肢に出てきたよ! ケネディのときで合ってるよね?」


 中学受験をした子たちも順番に進路を決めていったようだが、私はそっちにはさほど関わっていないから、合格報告を電話で受け取ったアキ先生に笑顔を送るくらいが関の山だった。そうやって電話一本が入るだけでも、受験なんて個人競技そのものに向かっている子たちが活気づいていくところは、補習個別塾の狭さが有効活用されている特異例だった。


「イズミ先生、社会の記述問題ってなにかコツはありますか?」


 おおかたの知識をつけきったカズキくんは、落ち着いた様子で私のとなりに座っている。というか本来、これが彼の姿なのだ。追いこまれたときに姉と違った感情をあらわにするだけで、平常時はむしろ、ハナさんに似て礼節が整った優等生なのだ。


「記述問題は一見むずかしく思えるかもしれないけど、実際は結構簡単なの。この問題でいうとザンビアの輸出品目とその割合がグラフになっていて、もうひとつ銅の価格が年度ごとに折れ線グラフで記録されているでしょ」


「そうですね」


 前のめりになって私の解説についてこようと頭を回している様子の彼。カズキくんに効果的なのは上からこうすべきだと道を示すのではなく、必要な視座を与えて思考回路をたどらせてあげること。


「ようするにこの記述問題で処理すべきなのは、出てきているこのふたつのグラフ。あとはこの問題文で問われていることに、グラフの情報を用いて一文ずつ返していくことなの。ザンビアは銅に頼ったモノカルチャー経済であり、モノカルチャー経済の問題点は年によって得られる利益が大きく変動し安定感がないこと。このふたつ」


 さあ、ここまで言えばあとはできるだろう。カズキくんなら十分だ。


「グラフにつき一文を書く、ですか」


「そう。しかも見たままの情報を書けばいいの。やってみなさい」


 彼はテキストの問題を読みはじめる。エールかなにかを送るべきだろうかと口を開きかけたが、垂れた前髪からのぞいた目があまりにもひとつの世界を見つめていたからやめておいた。この子も腹をくくったということだろう。二月一五日、マチの本命と同じ日付にむけて。


 耳をすませばこの塾にもガヤガヤと話す人の声がいつもどおりしているわけだが、その内容は少しまじめな、ギリギリまでなにかを覚えようとしたり、解けるようになるための会話が行われている。そんなのは本来の学習塾なら当たり前のことなのだが、残念ながら全国でもかなり水準が低い県で、さらに学力の低い子たちが集まってくる塾に勤めるとはそういう現実と向き合うことなのだ。


「イズミちゃん、磨製石器って弥生時代?」


「んー縄文時代の用語として覚えてほしいとこだねー」


 初歩の初歩を聞いてくる中三もいる。ショートカットな笑顔を浮かべている女の子は、果たして偏差値三〇代の公立高校に合格できるだろうか。塾としては実現できなければ示しがつかないのだが、どの教科にしてもなかなか成績を上げられないという厳しい状況にあるのもたしか。


 マスクの中で息を吐く。もしマチやチカさんを担当することがなかったのなら、私はもっと中学生の担当を引き受けることができて、ほかの先生では教えきれなかったことまで知識を授けることができたんじゃないか。現にこの子だって、大学二年生の男性講師に社会をみてもらっていたそうだが、てんで基本もダメじゃないか。


「……よくない」


 だれにも聞こえないように呟いた。自分の力でなんでもかんでも事態を解決できると思ってはいけない。自分で偉そうなことを言ったのだ。だれかの代わりになるのが仕事なのだと。代わりがいくらでもいるからこそ、自分もだれかの代わりに働くことができる。新人や中堅の講師の代わりに、今この瞬間私が教えているにすぎない。本来どおり私がみていれば、なんて思い上がりは抱いてはいけない。


「できた、本当に書けましたよ。先生……!」


「さすが。お姉ちゃんより呑みこみ早いんじゃない?」


「姉ちゃんにはまあ……負けますよ……」


 思いのほか曇った顔になるカズキくん。むう、やはり比較するような言いかたはまずかっただろうか。


「姉ちゃんが世話になっていて申しわけないです……」


 そこを気にしているのか。


「ううん全然。むしろ……」


「でもたぶん、そろそろ終わりになるとは思いますから」


 彼の言いかたは、とてもピシャリと、壁を作るような言いかただった。


「それってどういう……」


 しかし今は仕事中で、勉強の話題が出ればそちらに舵を切らなくてはならない身分。疑問はただのハテナマークとして、暖房の不快なぬるさに消えていった。


「でも本当に、先生のアドバイスで劇的に解きやすくなりましたね」


 カズキくんの声は、ここ最近では一番跳ね上がるような喜びを宿したそれだった。そう、新しいことができるようになるということは、それだけ自分が少し、この世界に比して大きくなるということだ。それはとても楽しく、かつ恍惚とするものなのだ。


「……言ったとおりだったでしょ?」


 それをどれだけ続けたって私たちは自分の小ささを思い知ってばかりの毎日だ。知れば知るほど知らないことを知っていく。なんと不条理なことだろうか。

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