言ったとおりに決まってる

「言ったとおりに決まってる」


 その声を聞いたのはバレンタインデーの朝ぼらけだった。


 いつもどおりに終わっていた昨日は今日という二月一四日を連れてくる。なんでもない一日が始まるかのような白い光がカーテン越しにもふんわりと伝わってきて、安物の布が頼りない。目が開かないのは疲れているからだろうが、開けたくないと思う程度にはとなりの布団で眠っていた彼女の声がとげとげしい。


「あんたは黙ってなさいよ。よけいなことは言わないで」


 ハナさんが喋っているのだろうが、こんな声の出しかたをする人だったっけ。もうこの部屋で彼女が眠っていることに違和感すら覚えなくなったのだが、その言い草には驚かされている。リアクションが取れないのが悔しいところだが、視覚に頼らないで状況を分析してみることにする。ハナさんは布団を被って話をしているようだけれど、暑苦しいのか若干の隙間を開いているよう。身じろぎは話すたびに大きく行われていて、感情的になっている彼女の癖はなかなか身体に出るらしい。


「そんなの演技に決まってるでしょう。本気で信じてるの?」


 ドスのきいた声。


「……それ、あの人が言ってたの……?」


 震えている。携帯電話を握る手から骨が軋む音がした。


 信じられないといった表情が目に浮かぶ。柔らかい印象を覚えるボブヘアが布団の中なのに整っているというのは、想像の中だけの話だろう。バカバカしい話だけれど、髪もセットしていないハナさんがこんな口調で話しているところを見たら、それこそ別人だと思ってしまうだろう。


「うるさい、もう切るよ」


 スマートフォンの画面をタップしたらしい軽い音。力なく端末を布団に落とし、深く息を吐いた彼女。掛け布団をあれこれ動かして静止したところ、どうやらもうしばらく起きる気はないらしい。こっちは時間を確かめることすらできない狸寝入り状態なわけで、おそらく放っておけばそのうち眠ってしまうだろう。仕事も忙しかったのだからそうするべき。常日頃、喉から手が出るほど欲している朝の惰眠だ。休日くらいはそれに手を伸ばすのもいいじゃないか。


 しかしそれが叶わないときがある、今がそうだ。


 ハナさんは明らかに怒っていた。私はいたく驚いてしまって、心臓が速く脈動してしまう。ストーカーにも見せないくらいの負の感情。そのとなりでは、安眠につきたくても無理がある。





「いやー、賽は投げられたわけだけど、ぼくたちの求める目は出てくれるかな」


「んんんん!」


 目ん玉が飛びでそうになっているハナさんは、実際に朝食に用意した目玉焼きふた皿を空中に放りだしそうな動揺を見せている。


「タイミング考えろよ……」


 ベランダへの窓をからからと開く、寒空を背景。マチはひさかたぶりに、窓から我が家への侵入を試みていた。本当はこいつがこの一件の犯人なんじゃないかと思ってしまうくらい、神出鬼没に壁を跨げる足を持つやつ。


「敵を騙すなら味方からってやつだよ。敵に攻撃するのなら味方から潰すのさ」


「それはただの皆殺しだ」


 核保有国の元首には絶対になってはいけないパーカーを家に招き入れ、ベーコンエッグをちゃんと食卓に着陸させたハナさんの容体をうかがった。


「ハナさん大丈夫?」


「……びっくりした……」


 胸に手を当てている彼女。ハナさんのかしこまったおうちでは、ベランダを飛び越えて他人の家に突入するという奇行をはたらく人間はいないだろう。それ以上に、玄関以外からの侵入という発想がないのかもしれない。窓からマチがやってくるということに驚いてもいない私のほうが問題なのかもしれないが。


「いや~ごめんねぇ」


「マチちゃん、落ちたら危ないから玄関からおいでね?」


 すさまじく常識的な注意だ。私がすべきだったのだろうが、ついに先を越されてしまった。


「二階だから問題なしだよ」


 格好ついてないぞ。髪の毛を手で払ってなんのアピールをしているんだか。少なくとも優雅ではないし美しくもない。


「せいぜい受験に落ちないようにがんばるこった」


 なのでお小言をくれてやる。カトラリーと調味料をテーブルに並べるのも手伝えと言いたいところだが、今日はどうしてもマチ頼みになるのだし、今は働かせなくてもいいだろう。とはいえこいつだけを前線に立たせるつもりもないが。


「あー! デリケートな話なのに!」


 頬を膨らませているパンダ。言っていることも否定しようがない。明日に迫った第一志望私立文系大学の試験開始まで二四時間を切っているのだ。人生の岐路、その瀬戸際であることは間違いない。こいつもこいつなりに、その重圧を感じているのは分かっている。ここ一ヶ月の様子を見ていれば、なんてことないただのテスト、という認識はしちゃいないと分かるものだ。


「いまさらあんたに気を遣ってもしかたないでしょう?」


 だからこそ、周りくらいはいつもどおりにしておかないといけない。私なんかが変にあたふたしたところで、事態は好転なんざしないさ。


「人道無視だ! C級戦犯だ!」


 そう、こんな風にマチをほくそ笑ませておくのが吉だ。


「仲がよろしいようで……さあ、ご飯にしましょう」


 飲み物を注ぎつつ呆れているハナさんも、バレンタインデーを怖がる素振りだってない。今日を迎えるうえで計画は立てておいたのだ。彼女もあの犯行予告を、座して待つつもりはない。朝早くからペンダントを首から提げ、ブルートパーズを光らせる彼女。ほんと、寝間着姿の私と違い朝に強くて羨ましい。


「そういえばミズキっちのそれって、どっかで買ったの? なんかいつも提げているよね」


 光り輝いているそれにようやく興味を持ったらしいマチは、食事のときだからと外された青をしげしげと眺める。放っておくと勝手に手を伸ばしそうな雰囲気だ。


「買ってないよ」


 にこやかなハナさん。私はインスタントコーヒーを啜った。


「おばあちゃんに貰ったの。もう死んじゃうからって」


 思いがけないストーリーに虚を突かれたマチは柄にもなく言葉を失っている。口から先に生まれてきたようなこいつでも、口は禍の元という言葉くらいは知っているらしい。


「ああ、いいの。もう何年も前のことだから」


 そうなるとは予想もしていなかったらしいハナさん。私にこのエピソードを披露してくれたのは高校二年生くらいだっただろうか。いっしょに住んでいた祖母に貰った大切なペンダント。学校には連れていってはいないが、制服を着ていないときはたいてい首にかけているのだと慈しんでいた情景。


「おばあちゃんのこと、好きなんだね」


 当たり前のように死者へ現在形を使う黒い服。気にせずベーコンを食べる私。


「そりゃもう。知性や希望って宝石言葉らしいから、受験がんばれって意味だったのかもしれないけど……」


「じゃあ、それは叶ったってわけだね。ぼくもそれにあやかるとするよ」


 他人の大切なものには触れないように。マチはマチなりの道徳観で空色に輝く宝石を眺めるだけでいる。


「うん、がんばって」


 食事の写真を撮ったハナさん。


 マチとハナさん、ふたりはそれこそまったく異なる人生を歩んできた。と私からは見える。そりゃ人の数だけ人生があるのだが。マチは自由に殺されないよう好奇心を磨いてきたのに対して、ハナさんは束縛の重さに潰されないようしなやかな思考を手に入れた。そんな彼女らが平気で談笑できていることに、人生の不確定さがよく表れている。人は他人と話すことによって、少しずつ知らないものを知っていく。彼女らが出会えたということはなんの意味ももたらさないかもしれない。けれども桶屋を儲からせる風があるように、彼女たちをどこかに運ぶ羽ばたきがここで起きているのもまた事実。


「美味い」


 事が実ると書いて事実だ。その果実を座りしままに食うは私でいたい。みんな親だけでなく、塾の先生孝行もしておくれ。他人が作ってくれるご飯よりも美味しいものはないのだから、こんな日々が続いてくれればいいと思う。


「張りきるのもいいけど明日もあるんだし、遅くなんないうちに帰るわよ」


 しかしながら、もしも今日でハナさんのストーカー案件にかたがつくというのであれば、彼女がこの家にいる理由もなくなってしまう。最初は親にその被害について理解を得られないから、心身の疲労を考え我が家に招いたのだ。大義名分がなくなった武将が停戦するように、この奇妙な同居生活もおしまいにならないといけない。


「もちろん」


「はーい」


 マチにとってもハナさんにとっても、そして私にとっても最後の一日。「向ヶ丘遊園の長い午後」。月と地球を行き来する巨大な蜘蛛はともかく、ハナさんと私たちのあいだにつきまとう人間について決着をつけなくてはならない。相手が何人で構成されているのかにもよるが、今日明らかになる人数によっては……。


 そのときは、ダンチに話を持っていくしかない。情けない話だが、自分でなんとかしようとしたあとなら、頭を下げるのなんて苦じゃないし。


 ハナさんは先に出ますとヴァンズの白いスニーカーを鳴らしてアパートの外へ。扉は開いたままだけれど、通路がつっかえないように階段まで歩いていった。気遣いができてありがたい。マチとは大違いだ。


「先生、今日はなにを履くの?」


 私を待つように扉を支えているマチは、いつもならさして触れないような話題へ手を伸ばす。いつもくさしてばかりだが、外見へのこだわりにかんして私とマチが大きく優劣を開けているわけではない。実行に移すかはべつとして流行の色や素材に敏感なのは私だし、自分のセンスを貫いているのはマチだが、一般にいうおしゃれに無関心なのは変わりない。だからこそ、こういう話題はある意味でもなくただ新鮮だった。


「へ? べつに……じゃあ、動きやすそうだしエアマックス200にでも……」


「コンバースにしておきなよ。履きなれているほうがいいと思うよ」


 ぴしゃりと、パーカーは私を見ないで言い放った。前を見据えていながら私を見ないときのこいつは、あの夜にベランダの縁に立っていた風景を思い起こさせる。絶対的で、マチというより、もっと巨大ななにかから降ってきた言葉のよう。


「……分かった。そうしよう」


 ここで追及してもどうせ本心を話しはしないだろう。まずは私から騙すつもりなのだろうから、徒労をわざわざ背負いこむことはない。最低限の荷物をコートのあちこちに突っこんで、いざ行かんとコンバース。


「よし! じゃあ、ぼくの大好きなところに行くとしますか!」


 マチは意気揚々と歩きだす。ひさしぶりに巡礼ができるということで舞い上がっているのだろう。毎週テレビで観ているんだから焦ることもないだろうに。肩をすくめて扉を潜る。昼になりかけている向ヶ丘遊園市街は、透き通る空気で光をあちこちに反射させている。やや暖かい空気は、武運を祈るように私の肩を抱いていく。


 そして背後で鳴る、ひとつの音。部屋の中から聞こえてくる。だれかの携帯の通知音だろうか。まあ、遠くに行くわけでもないし気にしなくていいだろう。私たちが分散するような計画は練っていないのだし。


「行ってきます」


 ハムスターと恋人の亡霊に、まだそっちには行かないぞという挨拶。そして戸締りは大切だと、鍵をくるりと半回転。

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