ミュージアム

 歩いたのはほんの五分と経たず。コートに身体が順応するよりも前に、ふたたび楽な格好になってしまった。手元に重い布を抱えていると、バカバカしい気もしてしまうほど短い旅路。同じ気持ちを抱いているのはハナさんだけで、黒いパーカーは係員にチケットを見せたあと、ホールに広がる文字どおりの青天井に狂喜乱舞した。


「来たよ! 帰ってきたよ! 猫型ロボットだよ!」


「しずかに」


「うるさい」


 異音同義語を唱える私たち。


「生き返るね!」


 聞きもしないなら話しかけるな他人のフリをさせろ。


 川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム。甲州街道沿いにある向ヶ丘遊園跡地、花の大階段すぐとなり。私とマチが住んでいるアパートのすぐ近くに建っている、名前のとおり『ドラえもん』、『キテレツ大百科』や『モジャ公』などのコメディやSFマンガを描いてきた作家に焦点を当てた博物館だ。古くは藤子不二夫コンビとして活躍していた彼は、私が生まれたころに他界したらしい。長きにわたり彼が住んでいた川崎市でミュージアムが作られることになったのは二〇一一年。私が高校生になったあたり。大学生になってこの街に来て、登戸駅のホームで流れている音楽が『ドラえもん』のテーマソングであったことに合点がいったのは、もっとあとのことになる。


「え? 『21エモン』って『ドラえもん』よりも先に作られてたの?」


 作品年表を見ながら驚愕していた私だが、もともとしょっちゅう遊びにきていたマチはひたすらにニヤニヤしている。そんな話もしたな、サナちゃんに迫られる直前、あのくら寿司で。


「新鮮な反応だね~。国民作家ほど、みんなには知られてないことがたくさん眠っているものなのさ」


 知ったような口を利いたマチ、F先生の歴史にかんしてはあいつのほうが圧倒的に詳しいだろう。年表を指さしながらハナさんになにやら解説をしているあたり、さすが慣れているというところ。博物館や美術館に入ったときに起こる、やたらと歩幅が小さくなってしまう現象も、あいつには働いていない模様。


「……なんか、なんにも知らなかったような気分だ」


 広くベージュな展示室には額縁に入れられたカラー原画が人々を囲んでいて、その内側にはショーケース状のアクリルのむこうに代表的なマンガとその解説なんかが添えられている。『オバケのQ太郎』もそういえば描いていたのかと思いだしたのはこのときだった。内容なんてほとんど知っちゃないが、そう考えると藤子不二雄作品のなんたるかだってほとんど分かっていない。にわかというか、一般的な国民作家をぼんやりと見ていただけの国民なのだ。


「どう? 好きな作品とかある?」


 緩やかな足取りでショーケースを眺めている私。周囲に人はまばらにしかいないから、マチの声はよく響いた。反響なんてまったく気にしていないところが、コウモリ野郎のいいところでもあり悪いところでもある。その軽すぎないハスキーボイスはだれかを不愉快にさせるようなものではないから、問題もないのだろうが。視界の彼方には『ドラえもん』の原画を眺めているハナさんの背中も見える。周囲にあのフード姿のストーカーが見えているわけでもない。平和な姿だ。


「……昔さ、短編作品のペーパーバック本を読んだことがあるんだよね。たぶんF先生の」


「うん」


 ああ、言っていて懐かしくなっている。実家の本棚、たしかお父さんが旅行先で暇だったからという理由で買ったんじゃないだろうか。中学生の私はその姿を見て、暇を楽しめない大人にはなるまいと決意したものだが、結局その日のうちに宿でそれを奪い取り、読みふけってしまったのだとフラッシュバック。


「核戦争にまつわるなにかだったと思う。自主製作映画を順番に観ていくようなやつで……」


「ああ、あるね」


 タイトルまでは出てこないが、それはたいした問題じゃないような気がした。


 その物語では、数人の男たちが自作を披露していってそれぞれに感想を述べていく、最後に手番が回ってくる男はなんでもない日常の映像を流し、突如としてそれは真っ白な画面へ転じさせ映画の上映を終える。これはなんだと非難を喰らうものの、彼はこれこそ核戦争の恐怖なのだと力説する。日常が続いていたと思いきや、突如として炎に包まれ日常が終焉を迎えるというものが核の恐怖なのだと。そしてその演説のさなか、まだ男が話している途中にもかかわらず、マンガのコマも真っ白になって物語は幕を閉じる。作中映画と同じ、日常の途中で世界が終わりを迎えてしまう。


「プツン・・・・」と擬音だけを残して。


「ある日突然、日常は終わるんだなって思ったものね」


「当たり前だけど、大切なことだね」


 そこに描かれていた核戦争の恐怖に慄いたという記憶はないし、そもそも私は冷戦も完全に終結してから生を受けた人間だ。だから彼が伝えたかったことを、真の底から受け取っているわけではないかもしれない。


 それでも、私が藤子不二雄コンビの作品に対していだいた感覚を言葉にするのなら、そこで重要になることは「なにを描いたか」ということではなく、「なにを描かなかったか」という部分なのではないか。対比すると手塚治虫のそれは壮大な世界観を閉じこめようと伸ばす手が画面に載っているような気がした。一方、藤子不二雄作品はそういった重要な事柄はマンガのコマには入りこまないからこそ、私たち自身に放り投げるようなある種の乱暴さを持っているように思う。どちらのほうが優れているのかという話は置いておくとして、寓話めいているのは間違いなく後者なのだろう。


「マチちゃん、これすごいね……」


 そうこぼしたハナさんと眺めていたのは、F氏が実際に使っていたのだという作業机だった。木目がハッキリと見えるビンテージっぽさは、たしかに人が使っていた足跡を感じさせる。机の上には原稿やさまざまな形のペン。壁一面に広がっているのは生前所有していたのだという蔵書の数々。その数は五桁に到達するというのだから驚きだ。私が読んだ本の数なんて、それにはまったく追いつかない。知の積み重ね、探求はそこに寝転んでいる。


「ね、とんでもないよね」


 立ち入り禁止のために張られた細いロープぎりぎりで身体を伸ばし、その空気に近づこうとしているマチはこの三人のなかで一番はしゃいでいる。お前慣れているんじゃないのかよ。


「先生もそう思うでしょ?」


 首だけで振り返った器用なやつ。


「……そうね……」


 組んでいた腕を解いて、前髪をどかす。見上げるにはこういう用意が必要となるわけだが、ここに積み上げられた本たちだって、作品を作り上げるために必要となった知識たちなのだ。アイデアの源泉というものは、なにも才能だけではない。


「なにかをなすには周到な準備が必要ってやつですか」


 ブルートパーズを光らせる。


「偶然はそれを受け入れる準備のある精神を好んで手助けする」


 それにひとつ、言葉を重ねた。


「アレクサンダー・フレミング。ペニシリンを見つけた人でしょ」


 そんなことまで教えたかなと思うものの、近代のページで脱線をした覚えがあるからそれだろう。くだらないことを覚えられるくらい、マチは準備を重ねられたか。結果がどうあれ、私の準備はとうに済んでしまっていた。





 展示をあらかた見終え、私たちはミュージアムカフェで軽く食事をして、それから屋上の『ドラえもん』を中心に、各作品にまつわるオブジェが置かれた公園でひと呼吸をおいた。自動販売機で買ったお茶なんかを飲みながら、いよいよ今日の目的を思いだすにいたる。ただあのテレビに映っていた土管だとか、ピー助がこっちを見ているだとか騒いでいられたらよかったのだろうが、そういうわけにもいかない。


「……いたね」


 街道沿いのスペースから戻ってきたマチは、とくに表情もなく言った。それがハナさんと私に緊張を走らせる。だれもいない冬の原っぱで、こんな深刻な話題が上がることも今後ないかもしれないな。


「ミズキっちのカバンをひったくったフードのやつが、この建物の近くでずっと立ってる」


「……そうか……」


 まあ、マチが判別できたということはそいつがいたということだ。じゃあ、あの手紙を投函したのも、そして私の家を荒らしたのもやつということになるのだ。どういう因果かは知らないが、前から私たちにちょっかいをかけていたやつとハナさんを狙っていたやつが同一人物だったということになる。にわかには信じがたいが……。


「吐かせるしかないわね」


「うん」


 物騒な話をしているなという自覚はあって、ハナさんは少々怯えているようだった。こっちは立ち入り禁止の文化祭に無策で突っこむくらいには無鉄砲だし、激情を主として生きているような人間だ。マチなんて勘違いで無実の人間の脳天をぶち抜こうとした前科持ちなのだし。


「……じゃあ、おふたりとも……」


 うつむいて恐怖しているのかと疑いたくなるような調子で、ハナさんは言う。この瞬間ばかりは私もマチも彼女をじっと見やってしまった。


「生田緑地に行きましょうか」


 にやり。なんだかマチに似た、いや彼女がやるとより邪悪に見えるような微笑。獲物がかかったから、これから引きずり回してやろうという悪戯を予告している。私は一気に肩の力が抜けて、とうとうこの子もこっち側かと口だけで嘆いた。


 もちろん、バカはそのかぎりではなかったが。


「ミズキっちもノリがよくなったよね~」


 マチは奇麗で快活なウィンク。劇場版仕様の上機嫌で、高笑いはタケコプターより高く飛んでいった。

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