関係は失われた

 マチの言葉はただのからかいでしかなかったが、私も彼女の変化には目を見張っていた。私とマチがストーカーに反撃をするという野蛮なことを考えついた当初は、ハナさんを巻きこむつもりはなかった。相手を捕らえることを主目的とした作戦にいっさい関わらせず、安全なところにいてもらう。それを伝えたとき、彼女は是が非でも同行すると言った。


 喧々諤々の議論が交わされてなお、彼女は引き下がる様子を見せなかった。これは数年間見てきた高校生とはまったく異なる姿で、こっちもなかなかに苦労を強いられた。しかも説得することすら叶わなかったのだから、箱入りの娘も侮るもんじゃない。


「案外歩くんだよね、ここから緑地の入り口って」


「もうちょっと手が入れば、このあたりも暮らしやすくなるのにね」


 マチが嘆いたのはミュージアムを出た直後だった。事前に忠告をされていたから、周囲を見回したりうしろを振り返ったりするようなことは控えておいた。私たちがただ、受験の前日に気晴らしをしているのだと思わせるためには、ここで不自然さを出すわけにはいかないのだ。


 何十段にもわたる巨大な花の大階段を横目に、私たちは進んでいく。いまだ遺骸を残している向ヶ丘遊園が開放されていたら、生田緑地へ向かうルートもこんなに大回りをしなくていい。そう思うと、ここがフェンスで覆われていることはもったいない。この街は生田緑地を中心に、岡本太郎美術館や向ヶ丘遊園、そして藤子・F・不二雄ミュージアムなどの施設が展開されているが、そのうちのひとつがデッドスペース化していることにより、効率なんてものは姿を消してしまっている。





 変わるといえば、去年のバレンタインデーには一年後の私がこんなことになっているとは思わなかった。回想の風景が色あせているのは、あのころの私が心をほとんど失っていたからだろう。マチという厄介な生徒だっていたはずなのに、浮かんでくるのは何人か専属で受け持っていた受験生たちのこと。もっとも手がかかったのは、一番年上の高校三年生。


「ちょっと離れたところに畑を借りているので、お父さんがいろいろ揃えているんです。土をたくさん運べるねこ車まで買ってました」


 ハナさんは悩みが多いというよりも、苦しんでいることが多かった。もし彼女が抱えているものが悩みということができるのなら、そこに解決策が存在してしかるべきだった。けれども、絡め取られた糸の本数は余るほどで、ただの塾講師である私にどうこうできる代物ではなかった。それは、明らかだった。


「だから大きなシャベルとかもあって……」


 自嘲していたハナさんは、いたく苦しそうだった。この手の話は彼女が受験勉強へ本格的にくりだした八月のころから増えていった。それまでも、家族との関係で不自由があるのだということは仄めかされていたし、私はそれに大袈裟な反応を返すこともなく、ただそういう家なのかと個性のひとつとして会話を続けていた。彼女がほかの講師にそうやって弱音をこぼすと、慌てたり深刻な面持ちになったりする者がほとんどだったなかで、私のそれは少し意外だったよう。なにか陳情があって私がハナさんから外されるかもなと思っていたが、残念ながら予測とはまったく反対方向に事態は転がっていくことになった。


「……怒るときは、そういうのを持っていたりします」


 殴られたりすることはなかったそうだが、ハナさんは日々の生活のなかに十分ともいえる暴力のかけらを埋めこまれていて、慣れきってしまっていた。自分の話をおそらくはしたいのに、してしまうと過剰な反応が返ってくるか、あるいは距離を置かれてしまうからできない。だからこそ、なるべく暗い話を避けている。私にはそう見えた。そういう事情で、祖母が死んだときだって悲しむことができなかったんじゃないだろうか。


 彼女の理解者でいるつもりもないが、少なくとも、味方でいるつもりだ。


「でも大丈夫です。お母さんは一度、私の首を絞めて以降は口でしか怒らないので……」


 母親の話をするときは、中学生のときは大変でしたと口癖を呟いていた。なまじハナさんは賢かったから、被保護者である自分が対等な関係を求めて反旗を翻すということにバカバカしさを感じていたのだろう。暴力を振るわれなくなったことを愛だと勘違いすることは、暴力を愛だと勘違いすることより悲しいことなのに、それすら受け入れてしまっている。危うい人だった。


「弟とはあんまり話さないですけど……あの子はあんまり気にされていないんです。なんでかは分からないですけど、私は家の出入りや成績とか食べるものとか、全体的に報告しないといけないんです」


 彼女はカズキくんのことが妬ましかったのだろうか。そうとは言わなかったけれど、自分にばかり不幸がやってきていると、まるでほかの惑星に取り残されている北極星を観測するような口調でくり返していた。


 そして、その延長で彼女は泣いた。マチのようにずうずうしく、授業後に待ち構えていることなどもなかったが、授業時間が終わってもなお、教室に残ってひとりシクシクと涙を流していた。私はその横で報告書を作ったり、明日の予習をしたりと仕事をこなしていた。帰ってほしいとは思わないようにしていた。それを察知できるくらい、きっとこの子は他人を恐れていたのだろうから。


「そうだ。でもアルバイトだけはやらせてくれたんです。社会勉強だって。午後六時までですけど……」


 しかしながら、そのときに見つけた奇妙な感覚について私はすっかり忘れていたのだ。よく泣くハナさんと対照的に、私はまったく泣いていなかった。特別泣きづらい体質でもないのに、そのときは砂漠に放りこまれた心が水分を放出することを許さなかったのだ。寂しければ寂しいほど、泣くわけにはいかない人間もいる。私はそういうやつだった。


「……楽しいこと、したいのにな……」


 私は羨ましかった。目の前で肩を震わせるほど泣いている彼女が。一方恋人が死んだ直後にもかかわらず、泣きべそひとつかくこともできない、自分自身と向き合うことすらできないオトナな自分は、大人じゃないとうんざりしていた。


「合格しました。イズミ先生、今まで本当にありがとうございました」


 彼女の背後にいたお母様の姿を見たのはそのときが最初で最後だった。にこやかに、けれどカズキくんのやや鋭い目元が貼りつけられているような印象だった。なにかを言うわけでもなく、表情すらほとんど変えない能面だ。そちらは教室長に任せ、最後の授業ぶりに会ったハナさんに声をかける。それが私の仕事で、ようやくひとつ、終わった瞬間だったのだ。


「おめでとう。立派によくがんばったね」


 ハナミズキさん。嵐のように泣いていた彼女が穏やかに晴れ間を見せた瞬間、私たちの関係は失われた。生徒にもっとも感謝される瞬間、おのずと私たちは他人になっている。


 そこに希望を見出していたいのだが。

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