向かい風
「ここですね」
先陣を切って生田緑地の枡形山を登っていくハナさんの背中は、一年前のか弱い乙女を感じさせない。うっそうと茂った森の中を単縦陣に突き進んだ私たちは、すでに森の外からは見えないだろう。それこそが狙いだからいいのだけれど、冬場だというのに汗を滲ませてしまうくらい、湿った土と落ち葉を踏みしめていく山道は険しかった。
「……先客はいない、かな」
枡形山。私たち向ヶ丘遊園に住んでいる人間にはお馴染みの山ではあるが、その山頂にはそうは来ない。いちおう公園ができているということになっているが、実情はただの剥きだしの土でしかないのだし。
そこに君臨しているのは、古く北条早雲が入城したこともあるのだという一〇メートルほどの高さを誇る山城だった。その名を枡形城。当たり前だが当時の物がそのまま残されているのではなく、展望台としてエレベーターなんかが設置されたコピーモデルだ。
「上ろう」
四方八方を細い柱で囲まれ、瓦を模した屋根を構える展望台の内部へ。マチの言いつけを破ってうしろを振り返ってしまったが、森のトンネルからこちらへ抜けてくる人間はひとりもいなかった。ちゃんとついてきてくれているといい。願いを込めながらマチたちが待つ階段へと急いだ。
「結構寒くなってきたし、人もいないようで助かったね」
白く、明らかに現代の塗料で塗られた階段を歩くと、いよいよ連続の行軍に膝が悲鳴を上げはじめた。運動不足というやつなのだろうな、暖かくなったらジョギングでも始めようか。結果的にやらないのが毎年の恒例ではあるが。
「おおー」
「いやーすごいですね」
ビルでいえば三階分をいっきに上ったのに元気なふたり。おかしい、年齢が大きくずれているはずもないのに。
「ほら先生、こっちにおいでよ」
肩で息をしながら前を向くと、マチが転落防止用の手すりに両足を乗せ、空中と建造物の狭間に身を置いているところだった。ひょいと猫が柵に飛び移るような動作でそれをこなすものだから、ハナさんがなにか注意する暇だってありはしない。まあ落ちるようなヘマはやらないだろうけどさ。
「……来てるね……」
さて、舞台は整った。展望台から下を見下ろしておけばストーカーの接近に気がつくことが簡単で、なおかつここにはそう人はやってこない。夏は虫だらけ、冬は風晒し。実際に今だって、景色のほうに集中できる心の余裕があるのなら、遠く望む横浜の街なんかを眺めていられたのだろう。シルエットだけになったビル群がどんなだとか、くだらない話ができたはず。
「見ちゃダメだ、悟られる」
そっぽを向いていた私と違い、マチの言葉に目線を動かされてしまったハナさんは、小さくごめんと呟いた。私と談笑するようにこちらを見て、やや引きつった顔で息を吐く。
「……思惑どおり、ってやつですね」
なんでもない会話をしていると、そう自分に言い聞かせながらうなずく。緊張は伝染するウイルスのように、私の心臓も凍らせる。
「そうね」
この会話を契機としてか、手すりの上でしゃがんでいるマチはパーカーのポケットに手を突っこんで、なにやら準備と手を動かしている。その動作はどこかで見たことがあって、すぐに江ノ島のことを思いだすに至った。
「マチ……」
目線は合わせない。視界に風景を入れて、ただ東京方面の空が青いことだけを確認している。ハナさんは反対方向に、登ってきた階段のほうを眺めていた。
「なにさ」
両の手を空気に晒す。マチは右と左、それぞれハサミとメリケンサックを装備している。ルミエールタイプ1311は、今日も鈍く、銀色だ。
「無茶するなよ」
横目でチラッと、フード姿の細身がこの展望台のすぐ近くまでやってきていることが確認できた。深く息を吸う。
「……ふっ、いまさらでしょ」
明日が一世一代の受験日だというのに、こいつはとにかく、自分の手であのストーカーと対峙することに固執した。自分がやるのが一番安全だと、反論しようもない事実で私たちを黙らせる。それでも最初の当たりを済ませてくれれば、あとは私が身を投じてなんとかするつもりだ。このなかで、犠牲になるなら私がいい。
「じゃあ……」
そのまま垂直に立ち上がり、ふらり体重を前に。マチはどんどん傾いていく。
風が吹く。向かい風。
始まる。
「いくよ」
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