猛獣が歯を鳴らす


 私とハナさんも同時に走りだす。一直線に階段へとまっしぐら、必死に上がってきた標高を一瞬にして失っていく。外では大きな音、おそらくマチが一階の屋根に降り立って、衝撃を殺した音なのだろう。最初に接敵するのはどうしてもやつに任せないといけないのが情けないが、それにしてもあの落ちかたはどうなんだ。


「奇襲成功かね」


 ぐるぐると、何度も踊り場を通過していく私たちは軽く話した。


「まあ、めっちゃ驚いてはいると思います」


 マチから遅れること数十秒、私とハナさんは展望台の外に出ることができた。




 見れば、マチとフード女のふたりは鍔迫り合いの真っ最中だ。マチの獲物は高級なハサミ。おそらくミチルさんが見たら涙を流すくらいの無駄遣い。


「そんなもんで!」


 背中を反らしたマチの鼻先を掠めていったのは、トンファーと呼ぶべき金属製の棒。地面を蹴って私たちのところに飛びのいたマチは、唾を飛ばしながら喚いた。


「ふたりとも、大丈夫。ぼくひとりでやれそうな相手だ」


 手を出すな。マチは刃物をチラつかせるように蛇行し、フードとの距離をうかがっている。トンファーを前に突きだして、脅すように見せびらかしているストーカーの姿を見ると、たしかに喧嘩に慣れているとは思えないへっぴり腰だ。


「やめなって、素人なんでしょ?」


 近づいたマチに振りかざされる金属。


 最小限の体重移動で回避し、マチはもう一歩距離を詰める。


「ねえ」


 息を漏らす音。度重なる攻撃はストーカーの体力を少しずつ削っていく。本来なら距離をおいて一呼吸といきたいところなのだろうが、マチはそれを許さない。


「当たんないって」


 もう完全にマチの間合いにすら入っている。殺人のリーチを感じ取った犯人はいっそう暴れ回ることになるが、武器を持っていない部分の肉体を使うことに恐怖しているのか、単調な攻撃が延々と続いていくことになる。マチがこの場において優れているところは、避けられるが当たれば大けがをするという攻撃を、ただ単調に躱しつづけられるという点だ。しかも疲労の色すら見せることなく。


「うああああ!」


 その難攻不落に堪らなくなったのか、フードは大きな声を上げマチの脳天めがけて鉄柱を叩きこもうとする。大きな動作で。マチはとくに驚くこともなく瞬きをしていたが。


「ほら」


 ネズミが一瞬のうちにひき潰されたような悲鳴、それに似た甲高い接触音。敵の渾身の一撃を、マチはいとも簡単に白羽取りした。両の手ではなく、片手、髪を切るためのハサミによって。


「お前なんかがぼくに、勝ててたまるかよ」


 その瞬間、この戦闘ではじめてマチが力を込めて腕を動かした。予備動作はない、ただ思ったことを実行するためだけに身体は動いた。恐ろしいほど、正確だ。


 むこうの唯一の武器であるトンファーは宙を舞って数メートルうしろの地面に五体を打ちつけた。土は手荒く武器を受けとめて、また興味なさそうに放っておく。


「悪いけど、一発くらい殴ってもいいよね?」


 マチはハサミをポケットにしまい、その右手でストーカーの顔面をぶん殴った。骨が軋む音がしたのと、鼻から出たのであろう血液がその拳に付着する。マンガのように身体が飛ぶということはなかったが、尻もちをついたストーカーは完全に戦意を喪失した模様。あっけない幕切れ。



「ほら、顔見せな。さんざん先生やミズキっちに迷惑かけてさ」


 乱暴に、髪の毛まで上から掴んでいるのであろうマチは、そのフードに手をかける。抵抗しても無駄だと分かっているのか、往生際を従順に受け入れた女はうなだれて、力ない。私のとなりに立っていたハナさんも、謁見の瞬間に立ち会うためかふたりのもとへ走り寄っていく。


「はぁ……はぁ……」


 そしてマチは、ストーカーの正体を暴いた。そいつが私たちを狙っていたのか、ハナさんを狙っていたのか、その点についてはこれから聞きださねばなるまい。戦いはすっかりマチがやってくれた以上、尋問は私たちの役目か。


「……お前は……」


 しかしそれどころではなく、私たちの脳には驚きによって機能に著しい障害が発生する。なぜならそのストーカーの顔には見覚えがあって、それでいてなお、彼女が抱いている動機がまったく推測できなかったからだ。


「……」


 なんでその子がここにいて、この展望台までつきまとってきた? 間違いなくこのフード姿はハナさんのカバンをひったくった張本人で、いで立ちなども変わっていないように思う。あの日向ヶ丘遊園駅の周辺で駆けまわっていたのも、彼女だったというのか。


「メリ、さん……?」


 そう、この子の名前はメリさん。あの湘南に佇む高校に通っているはずの、チカさんの古くからの友人。ささいな、本当にくだらない理由でチカさんを傷つけたのち、どんなことをしているのか聞きもしていなかった女の子。会ったことは一度だけだし、名前だって憶えていたのも奇跡みたいなもの。


「あなたが……」



 ハナさんは何気ない足取りでマチの背後に立っていた。私はそれを不審に思わなかった。まだ犯人が暴れ回る可能性だってあるのだし、マチが守ってくれると思うのもしかたない。と。



 けれど、その光景にはひとつの違和感があった。間違い探しの絵にあったおかしな点を見つけたような、えも言われぬ気持ち悪さ。


 マチが持っているのならば納得もできただろうが、それはハナさんが持っていた。



 巨大な猛獣が歯を鳴らすような音。


 マチの白い首筋に、それが当たっていたのだ。



「がああぁぐあぁぁぁぁぁあ!!!!」



 ハナさんは持っていたスタンガンをマチに押しつけていた。完全に油断し、そして目の前のメリさんに気を持っていかれていた黒いパーカーは、不意を突かれて絶叫した。身体の端が大きく震えて、歯の隙間から息を必死に押しだしている。


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