徳川ってところまでは
うだるような熱気。なんてものは夏の昼下がりにお似合いな情景なのだが、我が塾では冬場のほうがそう称するにふさわしい温度と湿度を叩きだしてくる。やってられないと思っているのは、メガネを曇らせている何人かの生徒と講師も同様だろう。
「今日のラストなんですけど、ひとり欠席が出ちゃったのでおふたりのうちどちらかの生徒をほかの先生に任せようと思います。どうしたいですか?」
たいていの予定を組み終わり、さらには大学生の講師陣がテストや課題から解放されはじめたことによって、救われた表情になっている塾長。そんなものはこっちに決断のコストを割かせないで自分で決めればいいのに。
「じゃあまあ……アキ先生のほうを楽にしてあげてください」
というか、ふたり並んだ状態で私のほうを楽にしろだなんて新人さんの前で言うことはできない。そのくらいの意地はある。
「え……でもイズミ先生は……」
「大丈夫ですよ、慣れているので」
トモエちゃん、チカさん、そしてマチの三人。社会、日本史、世界史という解説の暴力を振るわなければならないフルコースだ。全部を平らげるのはかなり難題といえるが、このくらいなんとかしてみせないでなにがベテランの塾講師だろうか。社会的にたいした役割もこなしちゃいないのだから、塾内ではまともに働いてみせよう。大学生のバイトとは違うのだし。
「……はい、でも、カズキくんの授業は任せてくださいね」
両手を握った彼女に私と塾長は顔を綻ばせる。やる気のある新人というものは、こっちにもサポートしようという気を起こさせるものだ。それこそ学業ならまだしも、仕事への向上心のない、あるいはなさそうな人間に既存の従業員がどれだけ指導の労力を割くかといえば、そんなものは聞くまでもない愚問だ。人が人になにかを教えるとき、教えられる側の人間がどんな応対をするのかは大きな要素だ。生徒にはなるべく平等に。それこそ金銭を払っている客なのだから当たり前だ。けれども講師に対しては、そうもいかないというのが現実。アキさんはそのハードルを、確実にクリアして見せている。
「最近社会にかんしてはかなり予習してきたので……私なりにですが解説もスムーズにいけるかなと……」
やや尻込みしているような目だけれども、たんに自信がないというこれまでの状態と比べればいい。実際には、あまり生徒に入れこみすぎるのもやめたほうがいいし、責任感が強いというのも長所とは呼びにくいのがこの仕事ではあるのだが、全力で生徒にぶつかるという経験をした講師は貴重な存在になる。
「おっけ、がんばってください!」
それはそうと、赤本演習が多くてこっちは予習が終わってくれていない。情けない話だ。が、こっちこそベテランの人間が追うべき責任を果たすしかないだろう。私だって新人のころがあったのだ。そのころは先輩の先生方に放り投げていた業務、大学受験という巨壁。もう私の番が回ってきているのだから、とにかくは生徒からひんしゅくを買わないようにこなすようにしよう。
順番というものはどうしようもなくやってくる。共通テストの朝に話したことじゃないが、順番をこなした人間は、それ以降の世代へは手出しができなくなる。受験生ふたりの知識の伸びが限界にまで来ていながら、それでも解けない問題が出てきたときなんて、こちらが悔しくて顔を歪めたくなるほどだ。
「先生……ここの順番、分かる?」
真剣な声色で問題を指さしたマチは、まともな解説も載っていない解答ページをじっと見つめている。私も問題を斜め読みしておいただけの設問だったから、ほとんどこの瞬間に考えはじめないといけない。まったく不勉強だ。だがしかし、同じく赤本を解いているチカさんもとなりにいるのだし、そのうしろには江戸時代の三大改革の区別に目を回しているトモエちゃんだっているのだ。時間はほとんど、かけられない。
「二十一か条の要求。マルヌの戦い。アメリカの参戦。十月革命。ヴェルサイユ条約。ブレスト=リトフスク条約。サラエボ事件。タンネンベルクの戦い。キールの反乱。の並び替えね……」
舌を出したくなる問題だ。同じ年でも何月に起きたのかによって順列が入れ替わってしまう。これらの事象が起きた時期をすべて暗記していればいいのだ。と突き放せば楽なのだろうが、そんなのが給料分の仕事であっちゃ世も末だ。
「サラエボ、タンネンベルク、マルヌ会戦、ここまでが一九一四年の六、八、九月。それで翌年に二十一か条。飛んで一七年四月にアメリカ参戦、同一一月に十月革命。一八年初頭にソビエト=ロシアが戦争から退席、後半にはキール軍港の反乱。で、あとは締めの条約ね」
「さっすが~」
まあこういうときは、目の前で解いてみせるのが一番だ。しかも、よどむことなくしなやかな思考を見せつけるように。実践した私の頭でどんなことが行われていたのかを言葉にすれば、そのまま解説はある程度は成り立つ。
「九つの選択肢すべてをあらためて暗記する必要はまずない。たとえばサラエボが始まりでヴェルサイユがおしまいなんて言うまでもないし」
「それはそうだね。ぼくだって分かってた」
こんなものは自明な話だが、人がなにかの問題を解けるようになる過程と、その問題の解き方について言語化するときの認識には大きな差がある。その誤差をなるべく縮めて話すというのがこの仕事のむずかしいところだ。具体的にはタンネンベルクとマルヌが戦場になった日時は暗記できていたが、それをそのままマチに伝えたところで身動きはとれまい。
「タンネンベルクとマルヌのイメージは、二次大戦と同じような順番だと思えばいい」
「ドイツが東に行ってからの西?」
「それどころかタンネンベルクは今でいうポーランド領よ。そしてマルヌはフランス」
「二次でいうところの白作戦から黄色へってことか」
「そういうこと。よくそんな要らない知識覚えてるわね」
「先生がダべリングでミリタリー話するからでしょ」
む。肩をすくめているマチになにか言い返してやりたいところだが、ここで戦線を広げてしまうとナチスドイツよろしく時間という資源が足りなくなってしまう。戦略的撤退をし、後方にいるふたりへ身体の向きを転換するべきだろうか。
「イメージっていうのは分かった。その方向で考えて、納得いったらほかの問題も見直しとくよ」
その思惑を察知したマチは私が離れていきやすいように、自分が考える時間を展開する。生徒に助けられていたんじゃ世話ないなと自嘲しながら、キャスターを転がして残るふたりに話しかける。
「今マルつけ始めます」
「おっけー」
チカさんは滑り止めの大学の赤本を広げていて、おそらくは彼女の力なら軽くいなせたのであろうことはその仕草から察せられた。もちろんそういうときこそ足元を掬ってくるものだが、さあどうだろう。
「トモエちゃんは……」
問題を解いている最中だった長髪中学二年生は、テスト範囲の問題に目を回している。解説の直後で喉が渇いているから、水筒に入れた水道水を流しこむ。
「無理でしょ。こんなの分かんないよ」
「三大改革はとにかく先に人と改革の名前を覚えるの。その程度の暗記ならだれでもできるから。そんで、代表的な政策をあとから入れていくの」
「暗記なんてできないよ~」
できないんならなんであんたは日本語を普通に話せているんだ。田沼も入れて四人と三つの改革の名前をセットにするだけなのだから、ここに泣き言を言っていては来年の受験も先が思いやられる……。
「案外簡単だから、ほれ、享保の改革は?」
笑顔笑顔。営業スマイルはこの年頃にたいした効果は生まないだろうが。
「……徳川……綱吉……?」
「よし、徳川ってところまでは覚えているわけね……!」
正しくは。そう繋げようとしたところで、私の声は喉の奥へ。なにやら口ごたえをしようとしていたトモエちゃんも同様だ。おのずとそうなったというわけではなく、外的な要因、私たちが同時に聞いた怒鳴り声によって。
「だから! 覚えればいいのは分かってんですよ!」
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