ダンゴムシ
顔を出した二月に突入すると、虎視眈々と私たちを狙っているらしい犯人の影も話題にされなくなっていった。犯行予告も迫っているにもかかわらず不思議なものだなと思う。というか危機感がなさすぎるんじゃないだろうか。バレンタインデー、ダンチの言うように私は、私たちは殺されるかもしれない。どこかの小説で読んだような「死ぬのが怖くて生きていられるか」という格言ほど豪胆な気分にもなっていないが、それでもどこか、そう、おそらくは対処が可能なんだろうという漠然とした楽観が心に巣くっている。
「これ、差し入れです。マチさんに」
「……ありがとう」
嫌ではないのかもしれない。マチの親御さんが腕を伸ばして受け取ってくれた手作りクッキーたちが離れていく瞬間、懸念がむしろはにかんだような気がした。
私はハナさんがこの家に残ることに反対だったし、今だってできることなら考え直してくれないだろうかと願っている。彼女が狙われているのか私やマチが狙われているのかはいまだ不明だとしても、家族といっしょに過ごしていた方がずっと安全性は増すはずだ。けれども、そういったものは横に、価値観はひとつの問題に著しく傾斜していた。
私は今、マチの受験以上に重きを置いている事象が見つけられないのだ。
自分が、そしてハナさんが危険に晒されているのに、ともかくは黒いパーカーが心置きなくテストに向かってくれるようにサポートをしてしまう。犯人なんてどうでもよくて、ただひたすらに、合格を祈っている。
クッキーを食べて頭がよくなるのならば世話ない。だが私にできることはそれくらいなのだという無力感は、マゾヒスティックな快感を連れてくる。私、とても先生をしている。
「先生って……その……したことあるんですよね?」
「はい?」
暖房も切っていざ寝ようかという寝室。豆球だけが点いた部屋の天井を見つめていたハナさんは、ひとりごとではない言葉を投げかけた。
「その……マチちゃんと同じで……」
「マチと? なにが?」
私とマチはあらゆる分野において正反対な存在だ。だなんて他人を利用したポジション取りをするつもりもないが、はてさて同じ部分とはどこのことを言っているのだろうか。
「えっと……なんていうか……まぐわいっていうか……」
「あー。他人と寝るってこと、だよね?」
「そうです……」
言いにくそうに、寝返りを打った彼女はこちらに顔も見せない。ベッドに横たわった私はハナさんの後頭部へ話しかけることになるが、これが彼女なりの羞恥心への対抗策なのだからとやかく言うべきではないだろう。
「まあ、そりゃしたことくらいはあるよ」
事実だし、セックスは夢でも幻でもなく現実のものだ。
「やっぱそうですよね……大学生のころも、すでにですか?」
気だるそうな声だが、それは私が処女ではないということに関係しているわけでもあるまい。とうぜん、彼女自身のことが要因なのだろう。
「そうだね」
まあ、高校生のころのことなんて今の私には関係ないが。
「……やっぱり私も、したほうがいいんですかね……?」
はい?
「そんなことないと思うよ?」
食い気味で返してしまった。背中を丸めてダンゴムシになったハナさんの声は、あまりにも自信なさげ。
「いや、べつにしたいと思う相手がいるのならすればいいと思うし、そうでないのなら無理にしなくちゃいけないものではないと思うし……」
どっかのバカも夏の終わりに言っていたじゃないか「セックスしたところで人生が変わったわけでもないんだ」って。性にかんする経験があるのかどうかなんて、人間を測るものさしにはなれないのだ。
「……でもどこか、したことのない自分に嫌気が差す瞬間があったりしませんでした? 私はたまに、沸騰するような焦りを覚えたりします……」
どうだっただろうか。すぐに肯定できるほどの同意はなかったが、高校生のころ、部活の先輩に手を引かれるまでにはたしかに腹の底が弱火で炙られるような焦燥感に貫かれたこともあったかもしれない。それか、あとだしで生成される記憶みたいなフィクションが、そう信じさせようとしているだけかもしれないが。
疲れによって首筋に手を伸ばした眠気が、枕から私を剥がさないようにしているから、ハナさんの顔色をうかがうことは叶わない。部屋の中はぬるくはない、ただ、宇宙みたいに冷たい。
「男でも女でも、そうでなくとも、とりあえずしたいと思った相手とすればいいよ。食べたくないものを無理に食べる必要はないんだし」
テンプレートな教えかただ。彼女がどういう具体的な悩みを抱えているのかによって、それをアレンジすべきなのは承知している。もちろん、ハナさんが開示してくれるのであれば、不可能なのだが。
「……普通こういうときって、男の人を候補としてあげません?」
疑問符は意外な方向に転がった。ハナさんの関心は、よく分からない。
「……? べつに? どうでもいいからね、性別なんて」
本心からそう言った。ダンゴムシは身じろぎをくり返してワラジムシくらいになっていく。
「……先生は寛容というか……」
「どっちかっていうと、どうでもいいってだけだよ」
「そうですね、そうなんでしょうね……」
それからしばらくのあいだ、会話らしいやりとりはなくなった。疲れていたということもあるのだろうが、そうやって静かな空間が自分を包んでしまえば、あっというまに睡魔に支配されてしまうのが人間だ。おまけに真冬ときているのだ。温もりの価値は上がっていて、天然の温度へ抵抗する毛布と掛け布団は、撫でもしないくせに私を安心させていく。夕日がそうであるように、意識も沈んでいく。
そしてポツリ、ハナさんは思いだしたかのように言った。
「マチちゃんって……」
どうしてここであいつの名前が出るのだろう。そう思っても、声を出せるほど頭は働いてくれない。落ちていく眠りはあまりにも魅力的で、目覚ましすらかけ忘れるくらいにひと息のうち、夜は明けてしまった。
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