ハナミズキちゃんよりも怖くない

「……イズミ先生」


「なんです?」


 授業終了後、教材の片づけや報告書の作成なんかで講師の控え室に留まっていた私に、三〇代後半男性、髭の剃り残しが目立つ塾長が声をかけてきた。声のトーンがニュートラルな雰囲気だから、仕事の話でも展開されるのだろう。最近はめっきり業務相談のみが交わされるようになった関係で、非常にやりやすくて助かる。


「率直に聞きたいんですけど、アキ先生、カズキくんの担当を避けたほうががいいですかね?」


 個人名をこれでもかと盛りこんだ表現にこっちの心臓が跳ねてしまうが、彼女は今机の消毒に行っているから問題ではなさそうだ。とはいえ、いきなり部屋に戻ってきたときのことを考えて、私のほうは固有名詞を出さないようにしよう。


「……おっしゃりたいことは分かります」


 春先なんかのまだ時間がある状況ならまだしも、今回の不和はデッドラインぎりぎりで起きてしまっているのだ。関係の修復を目指すよりも、別の講師に変更してしまうというのが一番手っ取り早いし、お互いのためにもなるだろう。いや、少なくとも生徒のためにはなる。


「彼に確認は取りましたか?」


 ただ私が気にかかったのは、彼自身がどのような感情でいるのかという点だ。明晰な頭脳を持っていても、強固な態度がそのまま嫌悪を示しているわけでもない、というのは思春期の子供にはよくある話だ。だから、あからさまにアキ先生を彼から遠ざけると、それ自体がなにかの影響を及ぼす場合もある。彼の意思が、まずは知りたいし考慮に入れるべき情報だ。


「いえ、ただ一二月の面談では不満や不信を抱いている講師はいないと……」


 記憶を探るような言いかたに、私は一歩つめるよう、食い気味で放った。


「じゃあ、まだ待ってください」


 私の言葉を予想していたかのように、彼は口元を緩めた。アキ先生の成長とカズキくんの受験の結果という釣り合わない成果を前にしてなお、まだ最悪の事態ではないだろうと判断できるくらいには、こういう修羅場を潜ってきたというわけだ。


「しかしカズキくんは、今どういうことを考えているんでしょうね」


 宙に投げ、塾長はパソコンの画面にむかって給料関係の数字をあちこちに入力していく。返事も求められていないのであろうが、私は思いついた言葉をそれとなく添えて、会話の橋が上がってなお、交信をしてしまった。


「『今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ』」


「ん?」


 私の『山椒魚』な返事は届かなかったらしいが、説明なんぞしなくていいだろうと肩をすくめ、彼女の手伝いにと部屋を出る。


「彼女にもう少し任せましょう。彼女は今日のどこが悪かったかを、自分で考え反省していると思うんです」


 その発言が口から出まかせにならなかったことを認識したのは、塾を出て数分後のことだった。


「イズミ先生はよくできる生徒さんに、どうやって指導していますか?」


 極寒のアスファルトを下りながら、闇に呑まれた大学を無視してアキ先生は話している。目線は私を見ているのではなく、やや足元。


「単純な〇と×を見ていては分からないことがあるから、むずかしそうな問題には前もって目星をつけておいて、勘で解いていないか確かめるかな。あとは正解していた問題でも、変な考え方をしている場合もあるから、スタンダードにはこう考えておくことも大切って言っておくとか……」


 唇に指を当てて、彼女はなにかを確かめるようにうなずいた。自分がどうするべきかを私に尋ねるのではなく、あくまでもこっちの意見は参考にするという程度の扱いだろうか。もともとこのくらいの気骨はある人なのだろう。


「しかしカズキくんは、お姉ちゃんのハナミズキちゃんとは全然違いますね」


 中学生のころの同級生の話を出すアキさん。彼女が去年まであの塾にいたことを知ったときの驚きも、今や薄れて久しいらしい。もっとも、その弟のほうが今や悩みの種ということなのかもしれないが。


「そう? でも結構似ているところもあるんじゃないかな、横顔とか……」


 個別指導塾では生徒の顔を見るときはもっぱら横から覗くことになるのだから、印象に残るのはその角度ばかりになるのはとうぜんだった。


「そうかもしれないですけど……」


 彼女は坂の途中で足を止めた。その背後には光る自販機、そして姦しく盛り上がっているふたりの受験生の姿があった。共通テストが終わってなお、気持ちを切らさずに勉学に励んでいる彼女らの、つかの間の息抜きだ。


「ハナミズキちゃんよりも怖くないんです。彼」


「え?」


 聞き捨てならないとばかりに、私も立ち止まってしまう。


「高校受験のときに噂になってたんです。ハナミズキちゃんっていつも笑っているって。私も同じクラスだったので、たしかにそうだなって納得したんですけど……」


「それのなにが……」


 悪いというのだろう? 私の言葉は遮られる。そういう意図ではないだろうが、古い知り合いとしての特権を振るわれた気分だった。


「三年生のとき、いっしょに住んでいたおばあちゃんが亡くなったあとも、それについて話しているときも、ちっとも悲しそうじゃなかったって……」


 そんなものは個人差によるものだろう。彼女が自身の祖母に対してどんな感情を抱いていたのかなんて、ほかの人間が知れるようなものでもないのだ。いちがいに悲しんでしかるべきと断じてしまってはいけない。もちろん一般の感性からはずれたリアクションかもしれないが、それこそ本当に傷つき悲しんでいるからこそ、彼女は明るく振舞ったという解釈もできるじゃないか。


「弟だって聞いて身構えていたんですけど、カズキくんはまっすぐに気持ちを表してくれるので、まだ覚悟ができるっていうか……」


 私の想像するハナさんだって感情豊かにいろんな話をする子だった。気に入らないことがあるのだという表情を見せてくれたし、そうでなければ楽しんだ映画の話や本の内容について話してくれることもあった。無理をしてそれを演じていたわけでもないだろう。そもそもハナさんが感情を出さないとしたら、父親に言われた「気に入らないならここにいなくてもいい」という強迫や、母親に言われた「勉強ができる子でよかった、できなかったら育てていられなかっただろうね」という賛辞に似た存在否定を私が知っているわけもない。


 けれども、私と彼女が同居していることを認知していないアキ先生がわざわざ嘘を言っているとも思えない。かなり昔の記憶とはいえ、個人名を間違えそうなエピソードでもない。


「まあ……肉親だからって同じような人間になるわけでもないしね……」


 混乱のなかから、つまらない言葉だけを並べた私。


「じゃあ私はちょっと寄り道していきますね」


 私の考えを聞くこともなく、アキ先生は不良娘たちの集会へと混ざるべく道を逸れて大学の敷地内へと侵入していく。カバンをまさぐって、なにやら真新しいテキストを取りだしたよう。クリア加工が街灯をきらりと反射した。


 自販機横のベンチであれやこれやと、青春らしい一ページを作っていくこと疑いない冬の夜。こちらはそんな会合に参加する気も起きなくて、マチやチカさんを彼女に託すような思いでひとり歩きだす。手を振って、お疲れさまでしたと形式的な挨拶を交わした。

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