べつにヘーキ
彼は細かい事情までは話してくれないものの、ハナさんはよく、進学にかんしてお母様がいろいろと口を出してくるのだと話していた。私としては本来彼女たちの授業料を捻出しているのは両親であるのだし、一方的に生徒の肩を持つというのは客と従業員という論理からすると悖ることになる。しかしながら、そんなバランス感覚は実際に面談を行う塾長に任せてしまえばいいのだと、彼女の愚痴にはひたすら肯定と同調、励ましで答えることと決めていた。それが彼女にどこまでの影響を与えたのかは定かではないが、自分の人生の岐路に立ってなお、親とはいえしょせん他人の文言に縛られている彼女が気の毒であったことに変わりはない。一年経ってなお、その認識を変えた覚えもない。
「お母さんは第一志望以外に受かることはまったく望んでいないんですよね……それも私が決めたわけじゃないですけど……自分がなくて困りますね、私」
「それに越したことはないけどさ、ほかは自分で見て決めた大学なんだし。あなたの意思がないだなんて私は思わないよ?」
「ハハハ、優しいですね、先生」
それはもう終わった受験の話だ。しかしながら、終わっていない受験である今年の問題はどうするべきか。
「あ、えーっと、どうだった……?」
次のコマ、カズキくんの英語を見ているのは私ではなくアキ先生だった。たどたどしく、おっかなびっくりとはこのことだなという様子で、浮足立つ声を投げる彼女。カズキくんはそれに対して声を荒らげるようなことはせず、ただ差し伸べられた手を弾くだけだった。それも強く払うまでもなく、本当に必要がないのだという事実をただ提示するようで、その大人びた振る舞いがまた冷たく映る。
「ハイ、べつにヘーキです」
英語は彼にとって得意分野だったし、あまり干渉せず彼が気になった点に答え、思考の導線を引いてあげるのがこっちの仕事。と私は思っている。ほかの講師がどうやるのも自由だし、彼の頭のなかで高得点に隠れた致命的な欠陥がないと断言することもできないのだから、アプローチをかけることが悪手でもない。
「でも、ここの間違いは……」
果敢に切りこむアキ先生、マチは私の横で赤本の答え合わせをしている。こっちは予習済みだから問題なく済むだろうが、いやはやすっかり世界史にも慣れたものだ。
「mayの訳しかたをミスっていました。『かもしれない』と『してもいい』、のふたパターンがありますよね。これまでの問題じゃ、肯定文だと『かもしれない』って訳されることが多かったので周りの文章を確認せずに目を切ってしまいました。それが原因ですよ?」
まくしたてるあの言いかたは彼独自のものか、あるいは周辺にいる大人から譲り受けたものだろうか。疑問符は相手の発言を封じるためにも使われる。これ以上なにか言うことはあるのか、と。
「そっか……じゃあ、こっちは……?」
「はぁ……そっちも自分で分かってますよ。これは……」
もう話しかけるな。ほとんどそういう調子で自分の分析を披露するカズキくんだ。しかもその自己分析はあまりにも的を射ていて、おそらく単純に英語の問題を解く能力だけを見るのなら、高校生を含め、この塾でも指折りの力を持っているだろうなと唸ってしまう。将来が楽しみだと思う反面、説教を受けているかのように背筋を正して平伏しているアキ先生を見ていると、力の使いかたは考えようだなとため息が出た。泣きべそこそかいちゃいないが、青菜に塩とやるせなさそう。もっとも、このあいだのような展開になっているわけでもない、ここでふたりにまた介入していてはこっちの過干渉となってしまう案件だろう。勉強に支障が出ているわけではない、彼らが仲良くなる必要だってない。
アキ先生にとっては試練だなという彼の授業。カズキくんが剥きだしにしている不機嫌な横顔は、どうにもハナさんを連想させてしまうからよくない。姉弟が似ていると思ってしまうことのいくらかは思いこみが生んでいるのだろうけど、こればかりは気のせいとは言いきれない。彼女が父親の発言を引用するときに見せる、歯を潰そうとするほどの不愉快さ。自分の努力はなんの意味もなく、あるいはその先の人生すらも無為に帰すのだと傍観者気取りの言葉に、彼女はいくどとなく傷ついてきた。今だってそうだし、カズキくんだって、あるいは似たような目に遭っているのかもしれない。虐待という言葉に相当するのかは私の判断するところでもないが、彼らにとっての家庭とはどんなところなのだろうか。だれだって安らぎだけがある空間でもないだろうが、彼らにとってその割合はどのくらいなのだろうか。
まあこんなこと、本人らには言えるわけもない。
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