ドアのむこう

 ひとりで帰るなんていつ以来だろう。最近は自販機の会合からマチとともに帰宅というルーティーンに甘んじていたから、孤独に靴音をただ聞いているだけという夜に新鮮さすら覚えてしまう。ひとり身の野暮ったく、さえない女。変に周囲を囲む人間に苦労しなくなったからか、どうにも忘れてしまいそうな現在地。脱却したいという欲もないが、はてさて現状維持でいいのだろうかと疑う自分もいる。


 むろんそのふたつの考えはどんなことをしていようとも浮上してしまうふたつの論理だ。どうせ逃げられない相克なのだ。考えたってしかたないのだから、無理に答えを出すことなく、とりあえずは悩んでおくこととしよう。正解なんてものは人生で見つけられることはそうそうないのだし。


「ほら、お菓子なんて基本的には小麦と砂糖と卵でできているんだからさ、配合次第なんだよ。どれが一番おいしいとかじゃなくて、そのときなにを食べたいのかによって作る料理を変えていくものなんだって」


 恋人が買ったオーブン機能もついた電子レンジの前で、ケーキのスポンジを焼いている最中、知ったような口を効いたシーン。お菓子作りにはさほど興味のなかった私は、いつもは整髪剤やら洗髪関係の薬品ばかりを触っている彼の指が、肥満の要因にしかならない食べ物を生成していく過程をおもしろがって眺めていた。彼が死ぬ一ヶ月前くらいだろうか。以前には言いだしそうにない生産的な企画に、「食べる係」としてお招きされたのだから、上機嫌だったのだろう、私。


「同じもので構成されているのにそれぞれべつの料理として認識されている例っていくつかあるけど、お菓子なんて味つけにすら大きな差がないよね」


「そんなことないよ、人間は舌だけじゃなく目でも料理を楽しむんだから」


 得意げな彼。わけもなく、かわいがるような勢いで小突いてしまう。手が早くてもうしわけないが、品格なんてある人間じゃないのだ。許しておくれ。


「それっぽいこと言ってんね~」


「いでで」


 しかしと、当時みていた日本史受験をするのだというハナさんを思い浮かべた私は、窮屈な門限や娯楽のなさに浸っている彼女と、他方世界史をどうにかこうにか教えているマチの性にも暴力沙汰にも開かれたお気楽さを比べてしまって、どうにかうまくバランスを取れないものだろうかと深く息を吐いてしまう。このあいだだって返ってきた模試からあぶりだした室町時代という弱点を補強しながら、なにかを思いだして泣いてしまっているハナさんを慰めるのに苦心した愚痴は、彼に言ってもしかたがないと呑みこんだ。


「またなんかまじめなこと考えてるね」


 熱した箱の中で香ばしく焼き殺されていくスポンジは、苦しみをもって美味という称号を手にしようとしている。漏れでてくる甘味の香水は小さなキッチンをあっという間に包みこんで、私たちの胃袋をいたずらに刺激した。


 無責任に、あと先のことなんて考えさせてくれない、狂気を誘う、誘惑。


「まじめに考えたってしかたないこともあるんだし、美味しいものをただ食べたほうがいいよ?」


 こっちの表情なんて見向きもしないで、ただ彼も食い入るようにオーブンを眺めているのだから、お互い暇なのだろうという白昼。まさかこんな徒然を、慈しんで思いだすとは夢にも思わない私だ。


「『何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え』」


『閑吟集』から引用して、次に会ったハナさんはこの名称を思いだしてくれるだろうかとぼんやりする。


「……ん? イチゴ……?」


 彼にこんな歌を吟じたところでなにかが伝わるわけでもない。そんなつもりもないのだ。だって同調しただけなのだから、意図を説明する理由もない。


「そう、ショートケーキが楽しみだって言ったの」


 最近は思いだす頻度も減ってしまった。恋人との思い出。仕事が忙しいということもあるのだろうが、それにしたって著しい傾向だ。


 そう、マチがミチルさんに向けた銃と、川辺で交わしたあいつとの会話。認められないことだけれど、それでも心の底では分かってしまっている。私は少し、吹っ切れたのだ。悲しみを受けとめて、ともかくは日々を生きると決めてしまった。なんてことだろうか。恋人が死んだことで、もう好きではなくなったとでもいうのだろうか。


 からっ風が頬を撫でる。小田急線沿い。列車の明かりのないそこは、どうにも寂しい、私みたいに。寒さに浸る野暮ったいオンナなんて、カタカナで書いたみたいに、軽くて飛んでしまいそうだった。


 この街のマンホールという蓋に開いたそれと同じように、私に開いた風穴は、もう塞がってしまったかのだろうか。




 安っぽい金属の音を奏でながら、音階の変わらないピアノみたいだなとひとりごちる。ようするに帰ってきたということなのだが、異変に気がついたのは鍵を捻っても自室のドアが開かなかったところでだった。


「あれ?」


 もうすでに開いていたということだろうか。もう一度鍵穴を回して確かめると、今度は古びた扉が私を迎え入れてくれた。ハナさんが不用心をかましてしまったのだろうかと首をかしげたが、その疑問符は部屋の中が真っ暗であるという事実へとさらに転用されていく。


「ハナさーん?」


 電気のスイッチを入れる。廊下の電気を頼りに歩いてリビングルームへ一直線。いつもなら夕飯を用意して待ってくれているはずなのに、今日はキッチンに彼女の姿は見られない。いや、それくらいならいくらでも許容するが、私を待っていた景色は疑念なんて持っていられないほど衝撃的だった。


「……え……?」


 まずリビングの電気は点かなかった。スイッチを押すまでもなくそれが理解できたのは、天井にくっついているはずのLED電灯が残骸となって床に散らばっていたからだ。


「……は……?」


 いや、それだけじゃない。


 本棚の中身も引っ掻き回されて散乱している、小さなパソコン机にある棚だってそうだ。食器棚には手を出された痕跡はないが、引きだしという引きだしが開けられているところを見るに、物色されているのは確実だ。


「……ハナさん……!」


 寝室も状況は似たようなもので、クローゼットの中身は信じられないほど乱雑にばらまかれており、ベッドの位置も大きくずらされていた。模様替えしたときだってこうも様変わりはしないだろうに、倒れた本棚はゴミ箱に全体重をかけて斜めっており、ばらまかれた紙はしまわれていたはずの夏服上に鎮座している。


「ハナさん!」


 叫んだ私の目に彼女の姿はいまだ見えない。とりあえずと足元に転がっていた木製ハンガーを握りしめ、残った水辺とトイレを探らなければならなかった。生き残った唯一の明かりである廊下区画を歩きながら、家の中に響く物音に注意している。これが外部から入ってきた人間のしわざだとしたら、もうこの家にはいないのだと確認するのは現状にとっての必須事項。私ひとりなら家を飛びだしてまず一一〇とタップするところだが、もしもハナさんの身になにかあったとしたら、それこそが一大事なのだ。逃げるわけにはいかない。まさか自宅でこんな緊張感に苛まれることになるとは思わなかったが、覚悟を決めるほかはない。


「……っ」


 ドン、と足が床を叩く音。右側、ドアのむこう。トイレの中から聞こえている。聞こえてしまったと目をつむりたくなったが、逃げないと決めたばかりなのだ。


「だれ」


 喉が渇く、手も震える。見れば施錠されているトイレのマークが、赤から青へと変わる瞬間だった。


「そこにいるの?」


 だれがいるんだかも分かりはしない。虚勢を張った声はうわずっていて、修羅場に慣れていない自分があらわになってばかりだった。



「……先生……」


 ドアが開く。振りかぶったハンガーは振り下ろされることはなかった。


「ハナさん……!」


 籠城をしていたのであろう彼女は真っ青に顔を染めて、私を見るや力なく座りこんでしまう。私も圧倒的な脱力のもと彼女のそばで同じ目線になり、震える手で震える彼女を抱きしめた。


「大丈夫? 怪我はない?」


 私の声に呼応して漏れだす彼女の嗚咽に、頭の容量をパンクさてしまう。次に取るべき手段を見つけられないでいる。右を向いても左を向いてもかき乱された生活の場は、私の脳内そのままを反映していた。


「鍵を閉め忘れてて……それで……!」


 まず彼女が私に訴えたのは、みずからの失態についてだった。私は首を振ってそんな反省はあとでいいと伝える。知らなければならないのは彼女の無事が最優先だが、目視したなかには身体に残る傷はなさそうだ。


 真っ赤に腫れている目元ばかりは、しばらく引いていきそうにない高波を表現していたわけだが、それ以上に心にどんな傷があるのか気にかかる。

 


 と、大人のように振舞っていたかったが、私のなかのオトナは、勝手に記憶のワンシーンとの接続を試みて、簡単に成功させてしまった。



 私はその泣き顔に、眠っていたとある感情を取り戻してしまう。忘れていて、なかったことにしていたあの思いを……。



 ハッと気がついた数秒後、元花屋の娘は、萎れたようにうずくまる。私の足にすがりついたハナさんの背中をさすってなお、私は彼女を助けることができないでいた。


「なにがあったの……?」



 うずくまったまま、低く、か細く、彼女はわずかに口を動かす。


「……怖かった……」

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