第八話 遊園市街

今日の天気は嵐

 ハナミズキさん。彼女の授業は日ごとにその色を変えていく、非常にスリリングな展開をみせていた。ある日には上機嫌に雑談をしてくれて、またある日には口が利けなくなったかのように沈黙し、最後にはこの世の終わりのようにわなないてしまうこともあった。アップダウンが激しいといえば聞こえはいいが、付き合う身になってみればその壮絶さは対応するだけで手いっぱいだった。猫の目がそのまま雲になったかのように、彼女の天気はことごとくを裏切ってなお、暴走を続ける肉食獣だった。


「ごめんなさい、私、怖くてトイレにこもってて……だれかがこの家を荒らすのを、ただ黙って放っておいちゃって……!」


 今日の天気は嵐。なんて冷静ぶって分析しても始まらない。時刻はすでに深夜帯に突入していた。なにも食べず、やってきた警官たちに事情を説明し、あちこち写真が撮られるのを見守っていた私たち。鑑識さんたちの気だるい作業が終わるころにはてっぺんを越えてしまった時計が、虚しく活動を続けている。そんなテーブルだ。


「もう大丈夫だよ。なんにも盗られなかったんだし、不幸中の幸いってやつだね」


 結論からいえば、今回の犯行は完全なイレギュラーだった。といっても私だって一一〇番の経験なんてはじめてのことだった。だからその評価も肩幅の大きな男性たちと、背の高い女性の見解をそのまま拝借しているのだが、ともかくはなにひとつとして窃盗被害がないうえに、破壊されたものも照明以外ほぼ存在しないという状況は、まさに異例としかいいようがないらしい。


「きっと私のストーカーなんです……そうに違いないんです……」


 滝のように流れる彼女の涙に背中を叩く。こっちも泣きたいわけでもないが、事態を感情にまで下ろすことができない私は彼女の感応スピードに舌を巻いていた。それだけ怖い思いをしたのだろう。安請け合いで家に招いたことは失敗だったかもしれないなと、自分を呪いたくもなった。もし彼女の予想どおりの犯人だとするなら、この家に来ることなく、家族とともに生活をしていれば家にひとりになるタイミングは限られていただろうし、だとすればここまで大胆な手を打たれることもなかったはず。


「……まだなにが分かったわけでもないんだし、とにかくものを食べて、お風呂入って、寝ようよ」


 しかしどういうことなのだろうか。公権力も首をかしげるほど、犯人になんのメリットも存在しないこの事件。家に入るだけ入り、倒れたりしたら壊れてしまう食器類や高額な電化製品には手をつけず、衣類や書籍なんかの比較的壊れにくい物品を床に散乱させただけ。たしかに一般的な空き巣としては意図不明の珍事といえる。通帳も印鑑も身分証もカードも、すべてが机の引きだしでまどろみを続けていたのだ。心の優しい空き巣ということにしておけばいいのだろうか。それはもう犯罪者でもなんでもないのかもしれないが、気味の悪さにおいて右に出るものはいないだろう。


「はい……」


 テーブルを挟んでむこうが一方的に泣きじゃくっていると、こっちが悪いことをしているんじゃないだろうかと不安になってくるな。汗でべとつく頭皮を掻きながら、出すことも叶わない被害届を思って天を仰ぐ。どうしようもないことに直面したとき、ハナさんはうつむき、私はその反対の行動を取るということらしい。


 とりあえずカップラーメンでも食べてひと息つこう。物色された跡のないキッチンの戸棚を開き、赤いパッケージのマルちゃん麵づくりを取りだした。お湯を沸かすまではしばし待たねばならないが、それまでに彼女は泣き止んでくれないものだろうか。


「……やれやれ」


 彼女にできれば涙を引っこめてほしいと願うのはいつ以来だろう。明確に一年前だと分かっているわけだが、それでも疑問形にしておかないとどうにも心地がよくない。過去との距離がおかしくなってしまうから。


 彼女が家庭から連れてきた悲しみの浄化場所として、私との授業が選ばれていたことに疑いはない。それを彼女が意識していたかどうかまでは分からないが。とにかくハナさんにとっての安息というものは、家庭の中にではなくむしろその外側に広がっているものらしかった。高校一年生から面倒をみさせてもらってきて、一番気楽に語られるエピソードが花屋のアルバイト関係だったというあたりが顕著な例だろう。店長さんがいい人で……虫が寄ってくるのがなかなか怖い……バラの花束を買う人がいて……このあいだは買いにきてくれてありがとうございました……彼氏さんもいっしょでしたね……。思いだす数々は笑顔ばかりじゃないか。それなのに、父や母について語る彼女がそうであったことなどほとんどなかった。彼らは喧嘩ばかりをして、その八つ当たりが自分に及んで、仕事の失敗、家具の不調、消耗品の買い忘れなんかを関係のない彼女の責任ということにされたのだという。


 ハッキリいってかわいそうだと思った。この表現を失礼なものだとする考えかたがあるのも知っているが、私はまったく賛同できない。個人の感情を表現する言葉を過剰に封じるような言説にはうなずけない。それでだれかを傷つけてしまうのだという懸念もあるだろうが、そんなことを言いだしたら人間はなにも言えなくなってしまう。だれかを傷つけるつもりのない「かわいそう」という表現を刈りはじめれば、言語の庭はあっという間にただ地面の色が広がるだけの風景を見せつけるだろうから。


「お湯入れておいたから、しばらくしたら食べよう」


「……はい……」


 うん、食欲があるのはいいことだ。ずっとうつむきっぱなしでも困るけど、無理に明るく振る舞うよう強制してもいけない。ぐずついたハナさんの目元。この子は本当によく泣く子だ。


 私は一年前、ずっと勉強をみていたハナさんにぼんやりとなにかを抱いていた。あの感情はきっと「うらやましさ」だった。もうすっかり忘れてしまっていた。あの冬の想い。悲しみに気がつかないように下を向いて、ひたすらに職場と家を往来していた一年前。今じゃ母校たる大学で姦しくお茶なんかすることもあるのだから、人生とは分からないものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る