二月一四日、もう一度
赤い蓋を眺め、そろそろ時間だろうかと胃袋の期待を手先へ伝播させた瞬間、背後からタライを叩くような間抜けな音が何度か響く。あんなことがあった直後に深夜の来訪者。ハナさんは瞬時に不安げな顔になるが、チェーンまでかけているのだし大丈夫だろうと私は玄関に向かう。
「こんばんは、先生」
覗き穴越しにヘラヘラと笑っているマチは、瞳に真剣な色を宿している。授業中にはそう見ることもない表情だが、この顔には覚えがある。あのときにはハナさんではなく、チカさんが私の部屋に泊まっていったのだった。秋からここまで、短いはずの時間は想像以上に長く感じられる。いまだ終わらない冬にうんざりとしつつ、ロックを外した。
「やっと話せる」
「あんたが帰ってくんのが遅いからでしょ」
玄関の壁に寄りかかる。軽口を叩けるだけで落ち着いてしまうのが悔しいが、目の前のマチはそれだけ、私にとっては救いだった。
「まさか自宅の目の前で補導の危険を感じるとは思わなかったよ」
「警官を見て警戒するやつなんて、補導じゃなくて逮捕されてほしいけどね」
「またまた~」
黒いパーカーはついさっき、鑑識の方々がさらりと手早く我が家を物色しているさなか、我が家への侵入を申しこんできた。結果としては、現場を指揮している大柄な男性に「ダメ」と締めだされてしまったわけだが、べつに茶化しにきたということでもないと声色から察してはいた。むしろマチを「部外者」と決めつけなんの話も聞かなかった彼らのほうが、今回の場合は柔軟性を欠いたといえるだろう。もちろん、割れた電球なんかの掃除をやってくれ、親切にもつけ替え作業までこなしてくれたのだから、文句は垂らさない。
「もう夜も遅いから手短に済ますね」
低くなった声。わずかに掠れ、性別を感じさせない話しかたは独特だ。マチの手はパーカーのポケットに突っこまれ、なにかを摘んで見せびらかした。
「ウチのポストにこんなのが入ってた。親も身に覚えがないって」
一枚のハガキ。嫌な予感がする。
二月一四日、もう一度来る。
ここしばらくは音沙汰もなかったイタズラ……と呼ぶことにした書簡は、忘れたころにやってくるもの。季節行事みたいになったらおもしろいが、なにを狙っているかも分からない手紙の主はどうやら今日の侵入劇となんらか関係があるということなのだろう。
「字が一致しているし。間違いないよね」
「……だろうね……」
なにがなんやら。だ。頭を抱えたくなって、衝動そのままに両手を髪の毛と接触させる。彼女のストーカーがなにか犯行に及んだんじゃないか、というのが可能性のひとつだった。しかしながらとなりに住むマチへのアプローチをしかけているということが、ハナさんへのストーカーの介在を否定させる。ハナさんを目標としているのならマチへの牽制は意味を持たない。これは私たちに向けられた刃の予告で、それが振りかざされるタイミングは完全に指定されてしまっている。
「……ハナさんを家に帰そう」
だとしたら、彼女をこれ以上この部屋に置いておくわけにはいかない。ただでさえ怖い思いをさせてしまったのに、さらに巻きこむことなんてできるわけがない。ドアに寄りかかってため息を吐いたマチは、その意見に首を振った。
「ぼくは反対かな」
なぜ。目だけで言い放つ、むしろ睨んだ、という表現が正しい。
「噛み合いすぎているからさ」
「……というと?」
話を聞こうじゃないか。背筋を少しだけ正す。マチは足をクロスさせ、踵をドアに軽くぶつけた。
「ミズキっちにストーカーがいる、そして先生かぼくにも、なにやらつきまとっているやつがいる。これらの存在が同時に存在して、片方の望みを断とうとすると、もう片方の望みが叶うっていう形なんだよ。今はさ」
「ハナさんを家に帰したら、今度は私が家にひとりになるから?」
「そう」
「もともとひとりではあるけどね……」
たしかにこの街の治安がいいわけじゃないのはムギちゃんママと話したとおりだが、さすがに女性のひとり暮らしもできないほどに悪化してはいない。家にひとりでいちゃいけないなんて、九龍城じゃないんだから……。
「しかも指定された日って、ぼくの第一志望受験前日なんだ。一番護衛がむずかしい日じゃないか。先生を孤立させることが狙いなのは明らかでしょ」
「だったら受験当日を狙うんじゃない?」
「月曜日は仕事だけど、日曜は確実に家にいるから狙いやすいんだよ。それにぼくは受験さえ終わればいくらでも自由が利くけど、前日じゃ無茶ができないって判断が働くって考えたんじゃないかな。あげく先生はインドアだしルーティーンで生きているから、むこうからしたら襲いたい放題でしょ」
なんか最後に悪口を投下された気もするが、こいつの言うことにも一理はあるのでそちらについて考えよう。マチの優先順位と私にとっての優先順位があべこべになっていることが、このさいは議論の焦点になる。
「それでもハナさんを巻きこんだら元も子もない」
「言うと思ったけど……その判断がむこうの狙いどおりだったら、犠牲になるのは先生かもしれないんだよ」
声を荒らげることはないものの、こういう平行線の議論は昔からお互い引いたためしがない。たいていの場合はなし崩し的に、外部による現象の進行がやむをえずと線を交差させていくのだが、今回はどうだろうか。
「いいから、なにがあってもバレンタインデーまでミズキっちの滞在を延ばすべきだ。戦力の分散は避けたい」
暖房も効いていないこんな玄関ではほとんど外で話しているのと変わらない。いくら体感温度がバグっているとはいえ、このパンダに風邪でもひかれたら寝覚めが悪くなりそうだ。さっさと今日は眠って、考えるのはあとにしよう。
「……本人に確認を取ってからだ」
彼女ももう大学生で、自分の身のことは自分で決めるべき年齢か。与えられた条件を自分で考えて、自分でいる場所を決めてしかるべきだ。
「あ、マチちゃんこんばんは」
リビングのドアが開く。ハナさんはもうべそをかいておらず、マチに軽く挨拶をする余裕まであるようだった。ひと安心だなと胸を撫で下ろすのも懐かしく思う。彼女の機嫌をうかがって、それにおもねるでもないが意識をしてしまうのは、講師としての血が騒いでいるからだ。
さて、今すぐではないにせよ尋ねるべきだ。彼女の居候を中断して、家に帰るか。それともこのまま住み着く時間を延ばしていって、血のバレンタインをともに享受するか。
もう先生。世話焼きな話しかたは、さっきとはまるで別人のよう。
「ラーメン、もう伸びちゃってますよ」
マチの第一志望の受験が終わるまで残り約一ヶ月。私の気苦労はこうしてまたひとつ、増えていくのだった。
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