拝啓イズミ様
一月後半の日曜日。まさかの住居侵入事件から数日後の午後、休日の私は多摩川に向かっていた。あんなことがあったにせよ、日常は献立や日用品の残量確認なんかを求めつづけてくるから、恐怖ばかりに頭の容量を割いてもいられなかった。むろん、残留が決まったハナさんに多少の説得を試みたりもしたのだが、いかんせん彼女も大きな危機感を抱いていないのだからどうしようもない。私もそうだけれど、なにを根拠に大船に乗ったつもりでいるのやら。
「……さてと……」
真冬の多摩川なんて来るもんじゃない。すっかりと葉も落ちて、裸同然となったヒグラシがとまる木の下に到達した私は座る。東京を目の前にして充満する土の匂いと、周囲の景色を胸いっぱいに吸いこんだ。
「読むとしますか」
なぜこんなびっくりするほど寒い季節、冷凍庫みたいに冷えきった河川敷で便箋に閉じられた紙を広げなければならないのかというと、理由なんてものは存在しない。気分としかいいようがないが、こういうものはひとりで読むべきものだと相場が決まっている。だからそれに従ったまでだ。
悴んだ手で開いた長方形には、丸みを帯びた可愛らしくも整然とした文字列が形成されている。彼女が日々を紡いでいる手によって書きこまれた時間が、地層のように積み重なっているのが分かる。
拝啓イズミ様
何度目かのこんにちはですね。サナです。
すっかり冷えてしまいましたが、なんてこともこのあいだ話してしまいましたし、じゃあどうやって最初の挨拶をすればいいのか悩んでいたら、今日の体育で顔面にボールを受けてしまいました。バレーボールの話です。
クラスメイトはいたくその様子を気に入ったらしく、しばし笑い転げていました。私としてもそこまで不愉快にならないくらいに親交のある相手だったので、いっしょになって笑っていました。教師は困っていましたけど、私としては数十秒後に垂れてきた鼻血のほうがよっぽど困ったので、彼があんな顔をするタイミングもそれにならってほしかったものです。
血液とは不思議なもので、流れさまざまな物質を運ぶのが仕事であるのに、きちんと流れを止めるという機能まで備えています。凝固したそれを鏡で見ながら、学校の水道からお湯が出ないことを恨んでいた脳味噌の片隅には、そんなくだらない考えが浮かんできました。そんなの車だってアクセルとブレーキがあるんですからとうぜんのことなのに。私はそれでも、どこかこの世界にあった、だれもが本当は気がついている秘密に触れられたような気がして、嬉しくなりました。
ほかにもそんな秘密がないだろうかと考えていると、目の前にあった鏡が反転させているものが本当に左右なのか、と考えて、じっさいにこれが逆転させているのはそもそも前後なのじゃないだろうかと思い至り、とても嬉しくなりました。鏡の中の自分と現実の自分が異なっているのは、左右の概念ではなく立ち位置なのですから。
ふと思いましたけれど、というか自分で書いておいてなんなのですが、鏡は前後以外、私とまったく同じ状況を写しだしているのに、どうして現実と区別するような想像が働いてしまうのでしょうね。
イズミさんはどう思われますか?
途中まで読んだところで、綻んでしまった顔がどうもみっともないだろうと顔を伏せてしまう。ストレートな疑問に大人として、人として、私としてどう返すべきかと考える。こういうものは彼女の放った言葉と絡めるようにして返すと、きまって締まる文章が書けるものだから、そういう方針がいいのだろう。
「ん~どうすっかな~」
自分でも能天気なことをしているなと思う。なんだって自宅に何者かが踏みこんできた週末に、教え子でもないたんなる他人との文通を楽しんでいるんだか。からっ風もお仕置きとばかりにこちらの肩を凍らせにくる。鞭で打たれるほどの痛みが身体に走ってもなお、この精神的な逢瀬がマチやハナさんの乱入によって邪魔されないことを優先してしまうのだから、そもそもで私のプライオリティは狂っているのかもしれない。
または、あんな卑劣な行為に及ぶようなやつに、私の生活を狂わされたくないという意地なのかもしれないな。
「ちと飲むか」
魔法瓶に入れてきたブラックコーヒーを楽しもうと蓋を開け、宙に消えていく蒸気を眺め数秒。上げた顔は視界を広くしてくれるから、手紙以外のものがよく見える。水道橋を渡っていく数多くの車。点きはじめた電灯たち。どんな季節でも必死に葉を伸ばす雑草としかいえない草ども。
「げ」
そして、真っ黒なコートに真っ黒なジーンズで固めた、黒ずくめの反社会人間、ダンチ。
「よう、塾講師」
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