まあ待て、イズミ

「サヨナラ」

 カタカナ発音を投げつけて、もろもろを片付けにかかる。マチが失踪したときにはお世話になったような気もしたが、具体的になにをしてくれたわけでもないなと気がつくとそのスピードはより速くなる。コーヒーなんて飲んでいる場合じゃないや。

「お前はもう少し、俺を怖がるとか、そういうのはないのか」

 魔法瓶をしまった段階でくだらない質問。年齢の読みにくい顔は、相変わらずどう形容すればいいのか分からないような、ハッキリとした特徴のない形をしている。

「生徒の茶飲み友達を怖がる理由はないでしょ」

 立ち上がって歩きだす。怖がっているとかではなく、単純にめんどうな出来事に巻きこまれたくないだけだ。反社会勢力のドンらしきやつと白昼堂々と会話する趣味は、どっかのバカマチと違って持ち合わせてはいないのだ。

「まあ待て、イズミ」

「お断りよ。手紙はひとりで読む主義だから」

 背中を見せつづける。どうせこいつは追ってくることもないだろうし。

「手を貸した方がいいか、と言いにきただけだ。そうせっかちに去ろうとするんじゃない」

 ダンチはものの見事に私のうしろ髪を捕まえた。意地でも前に進んでやるべきなのだろうが、私たちが直面している困難を打ち破るのに、これ以上の適役はないだろう。

「……べつに構わないわ。子供じゃないんだし、自分で解決してみせる」

「マチから聞いたわけでもないが、たしかにやっこさんのやりかたは素人だろう。というか、目的がまったく見えない。悪戯でもしているんじゃないかってくらいだ」

 結局話を展開させてしまっているじゃないか。まあ、向かい合って話しているわけでもないのだし、これくらいの距離感ならいいだろうというギリギリのラインだ。

「あっそ。なら放っておいて」

こいつと仲良くなるつもりもないし、むこうだってそれは承知しているのだろう。とくに今、ハナさんといっしょに生活をしている身なのだ。あの花屋さんのご主人のことを思えば、ダンチにいい顔をしてやる道理なんてあるわけもない。

「しかし、それにしてはボロがまったく出てこない。犯人にたどり着くための手がかりが、これっぽっちも存在しない」

 ダンチの声色が低くなる。

「やったことは素人臭いが、その手口はプロを超えているかもしれない」

「そんな情報、どっから仕入れてくるのよ」

 口ごたえ。白いため息も添えて。

「警察と繋がってないとでも?」

「はいはい」

 得意げに言うことじゃない。

「ようするに、イズミ」

 遠く、鳥が鳴いたのが聞こえるくらい。冬の空気は澄んでいるし、人々はひっそりと暮らしている。生活は、季節の変化に飲みこまれてばかりだ。

「お前、油断していると殺されるかもしれないぞ?」

 脅し。と表現できるならそうしたいところだが、ダンチは間違いなく私に警告を発している。こいつの部下にぶん殴られた経験もある私がこんなことを思うのも癪だが、どことなくこちらへ向けてくる優しさみたいなものはなんなのだろう。きっとダンチは、私たちを助けようとしてくれている。

「……こんなオンナを殺してどうすんだろうね……」

 これは反論ではなく、呆れただけのひとり言だ。私やハナさんがどんな悪さをしたらこんな窮地に立たされなければならないのだろうか。他人の命を奪ったこともないのだし、命を代償にしなければならないほどの罪を重ねてきた覚えだってない。

「引かれ者の小唄を歌ってどうする」

「それは犯人に言うべきセリフでしょ」

 振り向いたが、ダンチはこちらを見てはいなかった。クヌギの木を見上げている横顔にはこれといった感情も乗っていない。表情筋がすべてそぎ落とされでもしたのだろうか。こいつのいる世界だと似たような刑罰を執行する機会はありそうだ。

 藍色は夕暮れに手を引かれるようにして空の大部分へと覆いかぶさる。晴ればかりが続いている太平洋の気候は、決して暖かくもなく熱を保持する空間もなく、ただ開放されている。とめどない晴天は、夜の寒さを保証してばかり。

「……ダンチ、ありがとう。声をかけてくれたのは嬉しいけど、私の生徒たちとあなたとあなたの部下たちを、積極的に関わらせることは避けたい。ごめんなさいね」

 頭を下げることはしない。だって私が悪いわけではないから。

マキャベリズムに悖る選択をしているが、それでもおそらく、この判断は正しいのだろうと考えている。相手が本気でこちらに害をなそうとしているのであれば、もっといえば、ダンチの懸念どおり殺害やそれに類する行為を目的としているのであれば、それが可能な機会はいくらかあったはず。

ゆえに楽観視していられるとまでは思わないが、しかし……。

「まあ、マチは用心棒としては半人前だが、あんたのロイヤルガードとしては実力以上に働いてみせるだろう」

 ダンチは歩きだす。北上して水道橋を渡り、和泉多摩川周辺の事務所へと戻っていくのだろう。なんだってあいつの住所なんか知っているんだと自身の紆余曲折具合に辟易するが、ダンチも私の家に不法侵入していたこともあるのだし、お互いさまというやつなのだろう。こっちは知りたくもなかったから、釈然としないが。

「半人前って……マチは結構強いと思うけど?」

 教え子の戦闘能力評なんてものに修正を求める塾講師もそうはいないだろうな。しかしながら、湘南の高校で発生した不良たちとの乱闘だって、あいつじゃなければ切り抜けることができなかったじゃないか。同年代の男子三人を相手取って圧倒し、やつ自身は傷ひとつ負ってはいなかったのだから。

自分勝手に話しかけては同じく去っていく背中は、興味なさそうに手を振った。私の異議申し立てを軽くいなしてみせるように。

「そりゃ俺が鍛えたからな」

 それもやはり、自慢げに言うことではないように思った。

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