せっく……?

「まあそれはそれとして、ぼくの受験は待ってやくれないものなのです」

 エッヘンと腰に手を当てているパーカーはこちらに言葉を放っているつもりらしいが、それを相手にするつもりはなかった。勉強をするのだといって家に上がりこんできたのだから、望みどおりそれに集中していろ。

「待ちきれないね……」

「先生って意外と食い意地張ってますよね」

 ハナさんの発言に耳を疑いたくなったが、オーブンの中で香ばしく輝いているスポンジを見ている自分がガラスに反射しているから、どれだけ間抜けな顔をしていたのかありありと知れてしまう。

「いや~お菓子作りってひとりだと面倒だしやらないじゃない? しかたないっていうか、うん、しかたないよね」

 しどろもどろにどもっている。ハナさんは楽しげに口を歪ませ、べつにいいと思いますよとフォローをしてくれた。それがまたこっちを悲しくさせる。

「ただのシフォンケーキなんですから、あんまり期待しないでくださいね~」

「あはは。はーい」

 こりゃどっちが年上なんだか分からないな。ある程度育ってしまえば、六歳の年齢差なんてあってないようなものになるのだろうが。こっちもまだ二〇代なのだしハナさんにいたっては一〇代なのだ。それなりにまだ、大人ぶっていたいものである。

「でも先生のおうちの電子レンジがオーブン機能つきとは……何度も言ってますが、最初なかなか驚きましたよ」

 ふたりでは狭いキッチンで肩をぶつけ合いながら、洗い物を先に済ませようと手を動かす。ここに来た当初は遠慮がちに一滴単位で洗剤を調整していたハナさんも、今や強力な汚れへふたプッシュという戦力を投入している。慣れというものは本人も気がつかないうちに行動を変えてしまうのだ。

「まあ……私はいらないって言ったんだけど……」

「あ、彼氏さんでしたか……」

 しまった、という顔だ。気にしなくてもいいのに。

「うん。あいつも料理に凝っているタイプじゃなかったんだけど、なにか心境の変化でもあったのか、突然欲しいって言いはじめてね……」

 それでたまにケーキやらクッキーやらを作るようになった彼だが、長く続かなかったのは惜しい話だ。生きていてくれなくてもいいから、たまに作りにくればいいのに。なんてことを考えても、ほとんど悲しくないな。どうしたんだろうね、私。

「……すみません」

 どうしてハナさんが傷ついているんだか。ボウルやら泡立て器を網棚に置きながら、他人の顔色には敏感な子だなと再認識だ。

「本当に大丈夫だよ。ありがとね」

 むしろ私は、彼のことを悲しまなくなっている自分に戸惑っているだけなのだ。たとえば昔飼っていたハムスターのことを思いだしても泣きださないように。いいことも悪いことも、色が褪せていくことでむしろ魅力だけが残ってしまうレトロな風景へと変貌していく。生きていって歳を重ねるということは、えてして過去を過去として受け入れていくことで成り立つものなのかもしれない。という最初から分かっていたはずのことを、今になって気がついただけなのだ。

「先生は……まだその人のことが好きなんですか……?」

 お皿を三枚。同じくフォークも。大きさはバラバラだ。三人で食事を摂るための道具がこの家に揃っているわけもなかった。

「ん~、どうだろうね」

 一一月末、マチにはそう言ったはずだ。あれから二ヶ月。あまりにも短い時間だったけれど、変化のない返答をするつもりにはなれなくて、拭いたばかりの手で後頭部を掻いてしまう。いまだに切っていない前髪によって、大部分の視界を奪われている私が否定したところで説得力はないだろう。だから、曖昧な気持ちをそのまま言葉にでもしておこうと口を開いた。

「生き返ったら、そう思うのかもしれないね」

 焼き上がったスポンジケーキでありシフォンケーキ的な、小麦粉と砂糖をあーだこーだしたもの。配合については詳しく説明できないが、ともかくは原材料がダイエットの敵であることは疑いようもない。なんてことだ。

「く~生き返る~!」

 古典の現代語訳に使った糖分を補給するマチは、珍しく素直な表情で私たちの行いを褒めたたえた。最近はめっきり勉強まっしぐらとなっているパンダは、食事の世話もやってもらわないとどうしようもない、動物園の檻の中にいるかのような生活を送っている。勉強にかんするアドバイスだけではなく、こんなことまでせにゃならんのかと嫌味でも言ってやろうか。

「いや~、先生、ミズキっち、ありがとうね!」

 と思ったが、やめておくことにしよう。

 花屋の跡地で憤っていたこいつから、よくもまあ、満面の笑みまで戻ってこられたものだ。子供、というより人間は、いつ足を踏み外してしまうとも分からない、薄く張った氷の上を歩いている。こういう日常というものは氷上からはまるで分からないくらい、深く広がる暗い海ととなり合わせなのだ。

「しっかし、あのストーカーの件についていろいろ考えようと思ったんだけどさ」

 三者三様の皿に乗ったケーキがどれも半分ほどになったころ、おもむろにマチは呟いた。私の用意したアールグレイのティーバッグの紐をあちこち引っぱりながら。

「勉強忙しすぎて無理だということに気がついたんだよね~」

 その発言はこちらを安心させてくれるものだった。むろんストーカーを放置しておいていいわけではないが、マチの人生にとってはそれ以上に大きな波が迫ってきているのだ。そのサーフィンに全力を注いでもらわないと、こっちの立場がない。

「まあ、そうなるわな」

 だからこそ、マチを責めるようなことはできない。だれの問題なのかも分からないが、少なくともこれは私たち全員でなんとかするべき問題で、手の空いているものが率先して力を注ぐべきなのだ。

「マチちゃんにも苦労かけて……ごめんなさい」

 申しわけなさそうにしているハナさんも、ここまでオンライン授業の締めくくりのテスト、レポートなんかが忙しかったそう。ハナさんの授業中私は仕事に出ているから、どうなっているのかはまるで把握できていないが。まあ、彼女ならうまくやっているのだろう。相談もされないし。

「そうだよ~まったく、セックスのひとつもできやしない」

 口笛を吹くマチ。

「せっく……?」

 絶句しているのはハナさんだ。フォークで刺したシフォンケーキが空中で固まっている。それ見たことかと肩をすくめた。

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