メリーさんの羊


「お~い。探したよこんなとこにいたの」


「重役出勤ご苦労様ね」


「ご苦労様なんて重役の人に使っちゃダメなんだよ? 先生」


「あいにくと私のほうが標高は上だ。時間は?」


「高所有利の原則なんて古い戦術感だと思うんだけどね~。九時五五分」


 白と黒しか色を持っていないような、パーカー一丁で身をこなしているやつが、生田緑地に出現した。真黒な布から伸びている足の白さたるや凄まじいもので、アクリル絵の具セットの両端しか知らない画用紙として、こいつは生きている。男か女かといわれれば、中性的と答えるしかないこの人間。名前はマチ、一八歳で、私が働く塾の教え子。


 冗談みたいな見た目が山登りを終えようとしている風雲。ムギちゃんは池のそばで水面を眺め、自分の顔が写っていることをおもしろがりながら、石を投じたりしていた。私たちの会話に顔をあげると、目線を辿ってパンダカラーに気がついた。


「……お姉ちゃん」


 あの夜と同じく、なにやらパーカーから香る不穏を嗅ぎとってか。ムギちゃんは私の後ろへと回り、身体を半分ほど隠してしまった。私としては足元がおぼつかなくなるという不利益はあったものの、子供の純粋な目に射抜かれているマチを見るのは愉快でもあった。


「大丈夫だよ、別にこの人悪いやつじゃないから」


「いやはや、純朴な子供にこうも嫌われるとは、やっぱり先生と違ってぼくは大人向けの存在なんだね」


 参ったとお手上げなマチ。自分は変なものを所持していないという合図。これが彼女に通じるかはともかく、敵意がないことを見せるにはちょうどいいようだ。私が言ったということもあいまって、ムギちゃんは私の影からゆっくりと身体を出した。


「……こんにちは」


「はいこんにちは」


 おはようございますという時間だと思うんだがな。ムギちゃんの警戒心とマチの困った表情が交錯して、ずいぶんとギクシャクとした会話だ。私にはあんなに懐いてくれているのに、どうしてマチにはこんな対応なのだろうか。おおむね想像はつくが、この場で展開してもしかたがない話題だ。


「ムギちゃんだっけね、お近づきのしるしになにかしようか。少しなら時間もあることだしさ」


 しゃがみ込み、ムギちゃんに目線を合わせたパンダ。若干身体をこわばらせたムギちゃんではあったが、その目に見つめられると力は徐々に抜けていった。二人の空間に割って入るべきだろうかと思案したものの、おそらくは任せておくべきなのだろうなと静観した。ムギちゃんがマチからなにを感じ取っているのかは定かではないし、言葉にすることも難しいのだろう。しかしながら自分にとっての異物を常に排除し続けるような人間にはなって欲しくはなかったし、そこから広がっていくものがあると知れるのは、きっと彼女にとって大きな財産になるだろう。凝り固まった人間関係に身を置く私としては、彼女にもたらされる誤配を羨ましくも思った。


「……歌……歌いたい」


「そっか、よしじゃあ、『メリーさんの羊』は歌えるかな?」



 ふたりの歌を聴いて再生される記憶。別に歌詞に触発されたわけでもない。私の過去に存在していた時間。確か小学校のころだろうか、廊下でいまや名前も覚えていないような子と話していた。


「羊とヤギってどっちがどっちだか、分かんないよね」


 どうしてそんな話になったのかまでは記憶していないが、私に対してあの子がこう言ったことは間違いがない。


「は? バカじゃん」


 その反応に深く傷ついたというわけでもないはずなのに、やたらと鮮明に残ってしまっている瞬間。感情としては困惑という表現が正しかった。あの子も深い意味を込めて言ったわけではないだろうに。むこうはもう、覚えてすらいないだろう。しかしながらどこか心臓がどきどきする感覚と、手足が冷えたたことを忘れることができない私は、やっぱりバカ、なのだろうか。


 ヤギというとお婆ちゃんの家に行ったときのことも、数珠繋ぎ方式で思い出される。記憶というものは関連したワードで様々な場面が引きずり出されるものだ。インターネットの検索エンジンとは違って、ときおりまったく関係が分からない映像が掘り起こされることもあるのだが。


「お父さん、あれってヤギさん?」


「そうだ」


「手紙を読んでくれない人たち?」


「そうだ」


「人じゃなくない?」


「そうだ」


 そこで急速に笑い袋を活性化させたお父さんが、お腹から規則正しく吐き出される息を吐いていた。情景は青空とあの古い家のそばに広がっていた牧場。一頭のヤギを見つめ、なにか宿題のために鉛筆を紙に走らせていた私のそばで、へんてこな笑いのツボに翻弄されていたあの人。なにやっているんだろうかとため息だった私は、おそらくはまだ一〇歳にもなっていなかったんじゃないだろうか。落ち着いたお父さんはとりあえずとタバコに火をつけて、妻から言いつけられた約束を破った。私のもとへ副流煙が漂ってくるわけだが、父の一服に水を差したくなかったから反応はしなかった。


「ソーダ村の村長さんが……」


 私はふと学校で聞いたことのある童歌を口ずさみ、もしゃもしゃと刈られていない草を食べるヤギを下手糞に描いた。糞尿の問題なのだろう、一帯は臭かった。


 夕暮れまではまだあるだろうかという空気の乾き方。避暑地とも評されるだけあって、あの田舎の村は実家よりもずっと涼しかった。この敷地に入れてもらえているのも、お婆ちゃんやお爺ちゃんが近所の人たちと仲良くしてくれているおかげなのだなと思いながら、見上げた空には入道雲。まるでどこかで大きな爆発が起こったんじゃないかと思うような巨大さで、雲の峰は私たちを見下ろした。たとえ人が空を飛べたとしても、あの雲までは届かないんじゃないだろうか。


 ぼんやりと、私は夏に絶望した。


「ああ、死んだんだっけな」


 煙を吐いて、お父さんは呟いた。昨日、お爺ちゃんは骨にされた。


「お爺ちゃんからの手紙、あとで読もうな」


「……うん」


 別にお爺ちゃんのことは好きではなかった。でも、嫌いでもなかった。


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