虎を宿した眼


 向ヶ丘遊園駅に停車した普通列車は、いつものように三分ほど遅延していた。特にアナウンスはないが、小田急線では珍しいことでもない。むしろ時間通りに来られると改札口からダッシュする羽目になるからやめて欲しいくらい。


「イズミさん、座る?」


 マチがこう呼ぶときは周囲に大量の人、それも知り合いがいる可能性があるなかという条件。お店の中ならば、ある程度はプライベートな空間ということで容赦なく先生呼びになるのだけれど、完全な公共空間なら話は別とのことだ。私にはその境界線がよく分からない。


「いや、別にいいでしょう」


 見渡せば列車にはポツリといくつかの空席があった。けれどもふたり分のそれは確認できず、片方だけが座るくらいなら別に立っていればいい。マチも聞くだけ聞いたという風で、特に抵抗もなく「あっそ」と返した。列車は藤沢行、そこから乗り換えてさらに海側へと向かう予定だ。


「……あんたさ」


 ドア付近で留まっているのは邪魔だろうかとも思うが、ロングシートの端はちょうどよく背中を預けられる場所でもあるので許してもらいたい。私とマチはそれぞれが向かい合う形で座席端に体重を預けている。


「なにさ」


 ヤギといえば白ヤギさんと黒ヤギさんだろう。私は人間だから貰った手紙は最後まできっちり読むことを心掛けている。たとえそれが、たった一行しかない文章だとしても、穴が空くまで読み込むのが礼儀というものだ。



『隣の部屋に住む人間とこれ以上関わるな』



 あの手紙の差出人がどんな思惑でポストにまでやってきたのか、いまだに手掛かりの尻尾すら見つけられない。あれ以来特に目に見えた追撃が来ないことからして、軽い気持ちで行われたいたずらだと思えばいいだろうか。猫の目のような車窓から見える、自然が濃い二十三区のご近所さんたち。ドーナッツの生地そのものを展開するベッドタウンの連続には、あんな悪戯ハガキも珍しいものではないのだろうか。


「あんたふだん、どんなやつらとつるんでんの?」


「アッバウトな質問だね」


 顔色ひとつ変えず、真白なままニヤリと笑うマチ。


「いいから。まあ、堅気な人間を相手にしてないことくらいは知っているけど」


「そう言われてもね。いろいろだよ。別に誤魔化そうとしているわけじゃない」


 読売ランド前駅で降り、そのままテーマパークへと向かう者、同じ場所から帰ってきた者。資本主義の血管である列車では、ヘモグロビンの乗り降りが盛んに行われている。私とマチの間でだ。


「龍の刺青が入った男、リストカットまみれのバンギャ、妻と五年間レスの中年、セックス依存症の女子高生、風俗じゃイケない大学生や飲みすぎたレズビアン。一定の方向性なんてあるもんか」


 ここで得意げな表情にでもなっていたら、私はマチに対していくらかの失望を覚えただろう。昔はどうだったかは忘れたが、少なくともいまのこいつは、いっしょに寝た人間の数なんてあたりまえのものとしか感じられないようだ。それでいい。自分にくっつく数字なんて、自分の価値にはなりえないのだから。


「それでも、なにか物騒なことをしているやつらとは近いんじゃない」


「だから? そんなこと言い出したらそっちだってぼくの近くに住んでいるんだよ。ご近所さんが似た性質を持つというのなら、向ヶ丘遊園の街並みなんて廃墟同然になっちゃうよ」


「くだんないことを叩くな」


 へいへいと肩をすくめるマチは、うちの塾にいる小学生の男の子よりも他人を舐めた態度をとってきやがる。


「イズミさんがなにを勘ぐってきているのかは知らないけど」


「ウソこけ、知ってんだろ」


「知るかよ」


 両手をパーカーの前についたポケットに突っ込んだまま、わざとらしく笑いかける。満面の笑みとはこのことだ。えくぼがくっきりと浮かび上がって、いやむしろへこんで、は緩急のついた顔面で威嚇する、虎を宿した眼。


「……あんた、今日はなにを隠してんのよ」


「隠してるって確証でも?」


「ムギちゃんが怯えていたからよ」


「へえ、子供には真実を見透かす眼でもあると? すごい偏見だね」


 低速でカーブを描く列車の遠心力にも負けず、私とマチはその場から一歩も動かない。先に退いたほうが敗北するだなんて、示し合わせてもいないのにね。


「違う。子供には嘘をついている人間を察知する力があるの」


「言っていること、変わんないと思うよ」


 今度は停車、意地で踏ん張る。


「こっちがどれだけあの仕事をやっていると思うのよ。講師がしっかりと生徒の質問に答えられないからって誤魔化して、しっかりと信頼を失っていく様をさんざん見てきてんのよ」


「そうだとしても、たった一回怯えているくらいじゃ……」


 そらきた。発車する勢いのまま一歩詰める。足音は車内でやけに虚しく響いた。それでいて、耳に障る不快感。


「一回じゃない。ムギちゃんとあんたが初めて会ったときだって、あんたはあんたと寝た男が殺されている場から逃げてきてたんでしょう」


「それは隠してないよ。むしろ堂々とそっちに喋ったはずだけど?」


「そんなことは重要じゃない。ムギちゃんはあんたが近くで起きている暴力事件と関わりがない風に装っている態度に違和感を覚えていたの。今日だってそう、あんたは人畜無害なフリをして、暴力的な『なにか』を覆い隠そうとしている」


「なるほどね……」


 もぞもぞとポケットの中でやつの手が動く。そのしぐさはマチがこよなく愛するドラえもんが、必要な道具を探しているシーンに似ている。


「分かったよイズミさん。ひとつ約束をしよう。なにか武器を使って人を傷つけるようなことはしないって」


 川辺で絵の具と格闘していたときに漏らしていた情報。そう、あいつは武器を買ったと言っていた。なんのためかは知らないが、つまりは今日、持ってきているということなのだろう。


「……まあ、ならよろしい」


 さすがのバカも、ここまで詰め寄れば変なことを起こさないはずだ。


「それにいくらぼくでも、男相手で三人以上となったら勝ち筋ないしね」


「……本当にその気、ないんだろうな……」


 私も依然としてそうである以上、おそらくはこいつもチカさんの文化祭を邪魔するやつに対する怒りというものを失くしてはいないのだ。


「こっちも質問を返していいかな?」


「なによ」


「嘘に敏感な子供は、大きくなるとどうなってしまうのさ」


「嘘を吐くようになる」


 分かりきってんだろうに。


「あんたみたいにね」


 私みたいに、かもしれないが。

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