ちはやぶる人
「……開いてる……」
おそらくは聞いていた通りの場所。重たそうな引き戸が一つ口を大きくポカリ。周囲に人影はまるでない。爆竹の音もあいまってか、人の注目なんてこんな敷地の隅になんて集まるわけがない。弾ける心臓を抑えるように近づいて、躊躇うような手つきで掴んだ入口。身体を倉庫にするりと入れば、妙な埃っぽさに咳がこみ上げる。確かにこの手の倉庫は塵が舞う、部活のときには毎度髪の毛が大変なことになるから、一部の女の子は後輩に片づけを任せることが多かった。かわいそうな話である。
「でもこれは……」
そう、部活で思い出したのはまた別のことだ。正確に言えば。
メジャーを持って待機していたあの瞬間。眼前で舞った、幅跳び選手が広げた砂煙。
手探りでスイッチを押す。古い蛍光灯が明滅して、これから晴れ舞台に上がる演劇道具たちに輪郭をつける。同時に知らせたのは、この室内が異常なまでの砂塵に満ちているということ。宙に漂う砂たちが、光に照らされきらめいた。
「……やられたね……」
息せき切って私まで追いついたマチ。悔しさを滲ませているのは、私たちの目的がここで潰えてしまったかもしれないから。
倉庫にあった机、椅子、背景を示すための数枚の巨大板、いくつかの衣装、部員が置いていった小道具、その全部に砂が叩きつけられている。乾いた砂、目に入ったらしばらくは尾を引くような、後味の悪いクズだ。
「……畜生が……!」
ここで終わってたまるかと、私はマチと頷き合う。確かめなくても分かっている、腕まくりをした部外者たち。公演の時間まで一時間を切ったいま、とにかく動かす頭と手。
絵の具でさまざまな場所を演出している板を、ふたりで外に出す。無事だったタオルで砂を払い、マチはほかの物に手を付けていく。素人目だから頼りない見解ではあるが、外傷はほとんどないようだ。本当に汚れをつけていっただけ、なんてみみっちい犯行だろう。
「椅子とかもすっごく砂被っているけど、壊されたりはしてないみたい。そこまでの時間をかける度胸もないのかもね」
「意気地のないやつらだ」
吐き捨てて、次から次へと砂を落とす、埃を払う。マチもタオルや手で同じものを払いのけていく。灰色の粒は私たちの敗戦の証か、それとも開戦の合図か。どう転がすかは次の一手次第なのだろうが……。
「ぼくたちのせい、ってわけでもないんだろうけど、やっぱり油断してたんだね」
「……こういうアプローチをしかけてくるとは思わなかった……」
野外とはいえこの付近にはまったくと言っていい程人の気配がない。格技施設はなんの行事にも使われていないようだし、その隣にある黒ずんだ屋外トイレときたら、いっそう負のオーラを際立たせている。グラウンドの屋台たちから見てもここは死角ということもあり、このセミの小便にも満たない攻撃に目撃者はいないだろう。
「ただこの小便は、目に飛び込んできたのと同じくらい鬱陶しいね……」
私たちが作業の中腹を越えるころ、ようやく演劇部のメンバーと思しき生徒たちが倉庫にまでやってきた。先頭を歩いていたのはチカさんだ。ありがたい、話が速く進んでくれるだろう。という安堵も湧いてはきたが、一番にはまず申し訳ないと口を突いてしまった。勝手に来て、勝手に謝られ、つくづくはた迷惑なふたり組だ。
「……」
部長? と声をかけられても押し黙ったままのチカさんは。額に手を当てて俯く。そしてきつく口を結んでいる。状況を説明している私の後ろでは、黙々とマチは手を動かし続けた。私はといえば、彼女の発言を催促せずただずっと、再起動を待った。この倉庫にあったどの道具が本番に使うものなのか、修復不可能なものがあるのか、また別の問題点が浮上してやいないか。尋ねたいことはいくらでもあったし、その何倍も慰みや励ましを送りたかった。でも待つべきだ。合計六人もいた部長以外の男女三人ずつは、ひとりの声掛けによってマチと同じように砂払いに参加する。小道具類を丁寧に拭く女子が、ほかの部員に指示を飛ばす。
「……先生……」
その呼称に訝しむような視線が向けられたが、この非常事態に口を挿むものはいなかった。マチは部員たちにどこまでが処理済みのもので、どこからがまだ手付かずなのかを説明している。あんたは誰だという視線には、「友達」という二文字で押し通った。アシタカみたいに。
「秋とか冬になると、凶暴になる動物っていますよね?」
「……いるね。スズメバチとか」
「人間もそういうところってあるんでしょうか?」
本来ならいまごろ、行動にむかって運び出されていたはずの道具、衣装たちを見渡したチカさん。階段の上で仁王立ちをしていたときと同じく、メガネは光を反射している。心なしか、悲し気な色。
「……あるのかもしれないね」
私も振り返り、惨状を改める。大丈夫そうだけど、誰がこんなことやったんだ。という声が聞こえてくる。このへんって本当にいたずら多いとも。やっぱり普段から閑散とした場所なのだ。殺気立ったスズメバチが暴れられる程度には。
「……それはよかったです」
笑った。私は驚きとともに顔を見つめた。冷たい風が撫ぜる秋、草の匂いは濃くなるらしい。
「私は別に、間違っちゃいないんですね」
静かな怒りだ。美しくて、決して折れない怒りだ。
江ノ島の神にも負けていない。
ちはやぶる人。私には彼女がそう見えた。
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