覚えてないわけがないだろう


「先生……? ああ、嫌だな、また変なところ見られちゃいましたね」


 彼女の赤い自転車の後輪は、この間見たときと同じようにぺちゃんこになっていた。また釘を踏んでしまったとでも言うのだろうか。もちろんその可能性はある。だからこそ、煙幕が張られてしまう前に距離を詰めるのだ。最近はほんと、コンバースがよく吠える。


「見せて」


「え? いや……」


 後輪を確認する。強引に彼女の手から愛馬を奪い取り、片手で持ちあげては車輪を蹴って回転させる。


「この傷……」


 空気が抜けるには大きすぎる隙間。いや、裂け目というべきなのだろう。直線的にゴムの繊維が離ればなれになっていて、釘を踏んだにはあまりにも勢いのない傷になっている。医療ドラマの手術シーンの始め、執刀医が助手に言った直後のようだ。メス、と。


「釘……って言って納得できないですか?」


「なにがあったの?」


 メガネの奥の黒い点が揺れる。大学は今日も静まりかえり、彼女を安心させるほどの人ごみを作りもしない。彼女に大丈夫なのかと問いかける人間だって同じだ。チカさんは自分でどんどん背負い込んでしまうタイプなんだ。だから周りがよく見ていなければならないのだ。


 分かっていた、分かっていたはずなのに……。


「誰かにやられたんでしょ? この間のも?」


 斜めに頷いてから、表情で正解ですと告げた彼女。力が抜けていったのか、自転車は倒れかかりこちらで支えなくてはならなくなった。注意が二輪車に向いた途端、緊張の糸が解けたようにチカさんは笑った。乾いていて、自分の置かれている状況にたまらず零れてしまったという種類のもの。


「文化祭実行委員をやっているって話、しましたっけ」


 覚えてないわけがないだろう。けれどこれも、自分へ興味を持ってもらえていないんだろうなという、ある種の自信のなさから出る発言だ。私は頷いて、彼女が出した手に自転車を返さないまま聞いた。


「じゃあこれも以前話したのかもしれないんですけど……今回参加枠の制限があって、講堂を使えるクラスがすっごく少ないんです」


「うん、聞いているよ」


「はい……それで私、講堂使用希望書を受け取る係だったんですよ。放課後、生徒会室に間借りして……」


 手振りで空間を意味する四角を作る。茶目っ気を出そうと必死なのだろうけれど、私も心に余裕がなくて、愛想笑いすらあげられない。燃え尽きていたと思ったなにかが、臓物のなかで燻っていく。


「希望するクラスのうち一クラスが、受付時間に間に合わなかったんです。なので抽選にかけることもなかったんですけど、逆恨み……じゃないのかな、むしろ順恨みなんですかね。ともかくは嫌われちゃったんですよ。何人かの人に……」


 目の前が真っ赤になった。信号機もないのにおかしいけれど、事実なのだから否定のしようもない。自転車のハンドルを握る手に力がこもってしまって、もう返すに返せなくなりそうだ。


「そいつらにやられたってこと?」


 核心に迫る質問をする。勢い任せ、相手のことを考えている言葉だろうか。放ったあとに考えているのだから世話がない。だけれども、もう言い損ねて後悔するのは嫌なんだ。真実を知ることができるチャンスは、いまだけなのかもしれない。私が知ってなにになるわけでもないのに、ただ知りたいという思いだけが口を動かした。


「えへへ。暗いですね、やっぱりここが閉まっていると。人がいっぱいいるといいのにな」


 それが彼女の答えだった。私はなにも言えなくなって、しばらく歩いたのち、彼女に腑抜けた自転車を返してしまった。かける言葉はいつもいっしょだ。


「なにかあったら、遠慮なく言ってね」


 なんて情けない言葉だろう。


 ただ確実なことは、彼女がいて欲しいといった「人」とは、少なくとも言葉通りの意味ではないのだろうということ。確実ではないことは、その「人」とは彼女の味方をする人間という意味なのだということ。


 私は唇を噛んでいて、彼女は下を向いていた。

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