嵐の前の静けさ


 差し出されたリムーバブルデバイスをまじまじと眺め、信じられないといった様子のチカさんを思いだし、講師スペースである控え室でほくそ笑んでしまった。


「なんか上機嫌ですね、イズミ先生」


 塾長が声をかけてくる。そっすねとだけ返して報告書へ集中するという態度へ移行。最近は飲みに誘われることもなくなって、快適なことこの上ない。しかしながら上機嫌であることは真実なので、振られた雑談には丁寧に応えてやった。どんな車が嫌いかとか、興味の範疇外のことには「タイヤが一個外れているとかなけりゃなんでもいいんじゃないんですか?」と期待の範疇外な返答を繰り出してやったが。


「やっぱりいまの若い人は、その手のことに興味がないんですかね」


 お前に興味がないだけだぞ。ヒゲの剃り残しを触っている男に教室の締めを全部押しつけ、私の小人にしてやった。光栄に思ってくれ。マイナスイオンがどうのこうのという話は、ついぞメディアでは聞かなくなったと思いつつ、塾の目の前に広がっている鬱そうにハイタッチした。


 今朝のニュースで言っていた。今夜は風ひとつ吹かない穏やかな夜だと。ゴルフ場も近くにある、整然と自然と文明が分けられている世界。ガードレールやフェンスは、やる気もなさそうにくたびれている。気持ちは分かるぞと微笑んで、街灯が作った光の水たまりを踏みつける。小さくなった影は、歩けば再び長くなる。流れのない空気は私の動きに合わせて踊り、もつれた足でそのまま進む。


 まるで人生、そんな風景。


 こういう凪いだ空気をどんな風に表現できるだろう。なんだか一つ、ポエムでも作ったりできないだろうか。いいことをした気分になっているから、浮かれたステップを踏んでしまう。


「古池や、的な感じで……」


 空気が本当にそこにあるのかと疑ってしまうような、胸の詰まる沈黙。傾斜だけではなく、圧倒的な存在感の土の匂いが「ここが山だ」と告げている。ありありと、目で見なくても手が届かなくても、むこうが森だと分かるほど、土の抱えた養分が匂う。ついつい遠回りをしてしまう。陸上部だったから、というのは理由になるのかは知らないが、ともかくとして歩くのが好きなのだ。ぼんやりと考えごとをしながらだとなおさらだ。


「この静かな感じは……」


 遠くでなにかが反射した。あまりに小さくて見逃してしまいそうだったけれど、逆にいえばその小さな光こそが生活のなかでは珍しいのかもしれない。車のフロントライトなんかじゃ絶対に出せない儚さと、自転車の反射材でなければ表れない愛くるしさだ。まだこの瞬間、私はバカみたいに人生を楽しんでいる。道を歩いているだけで、生きているだけでたまにはこんなに美しいのだと実感している。


「……嵐の前の静けさって……いうのかもしれないね」


 これを口に出したのかは分からない。彼女がまた、自転車を押して坂を下っている姿を見てから思いついた言葉だから。


 今朝のニュースで言っていた。週の半ば、その夜には台風が直撃する。


 息を呑んだ感触が、喉を強く焦がす。


 仕事中とは違って、水を飲みたいとすら思わなかった。

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