ぼくも高校に通っていたら
それからしばらくの間は、多摩川が広がる背景の中で筆を動かすティーンたちを鑑賞しながら、甘味とお茶が広がる口の中を楽しんでいた。『東京物語』のラストシーンのおじいさんのように、穏やかな表情をしている私。あの映画に出てくる原節子の美しさったらこれ以上のものはないだろう。人間の見た目というものに強くこだわりがあるわけじゃないし、そういう意味での好きな俳優も女優も思い浮かばない私だ。そんな人間でも圧倒されてしまうほど、透き通る白と際立った黒で画面を彩った大女優のセリフなんかを思い出しながら、それこそいちおう東京都であるこの場所で日曜日の午後を呑む。
「こういう布ってどういうところで手に入れるの?」
「んー私も先生たちから聞いているわけじゃないけど、ユザワヤでメートル単位とかで注文したんじゃないかな」
「ユザワヤかー、この間池袋で見かけたな……」
「もうちょっと近場にもあると思うよ」
この間武器の調達をしたときに見たユザワヤがねーと、話を聞いているんだか分からないような返答を展開していく。そんなところに興味を持つのかと戸惑う同い年の女の子へ、マチは次々に質問を投げた。まあこの手の高校生らしいことはついぞできないままだったマチだ。今年といわず、すべての文化祭がやつにとっては物珍しいものだろう。規模を縮小するというのは、具体的にどんな施設を使わないということなのか。講堂での公演以外にクラスごとの展示、それ以外の催しものはないのか。グラウンドのほうもなにかしらで使うのだろうか。運動部の人は暇なのか。マチの制服姿を見たことがないという点と、そのマシンガンのような質問からなにかを察したチカさんは、途中からはとても丁寧に文化祭の概要を説明する体制に入った。さすが実行委員、どこまでが生徒が決定できるところで、どこからは学校から拘束されるのかという境界、それが他校だとどうなるのかという情報通な側面まで晒してくれた。
好奇心を露わにしたマチはミルワームと格闘するハリネズミのような輝かしい目をして、堰堤のざわめきに勝るほど騒がしい。ただ、私から引き継いだベタ塗りを続け、口は動かせど手は止めない。そこにやつの手際のよさというか、こざかしさがうかがえる。それに勝るとも劣らない速度で手を動かしつづけ、かつ単純にはいかない作業をこなしていったチカさんも、できた子で素晴らしい。
「ぼくも高校に通っていたら、文化祭を楽しんでいたのかなぁ」
マチが昨日振るった刃とは打って変わって、並行世界の自分に対しての慈しみ。私も作業へ戻り、筆をひたすら横に移動させることに心血を注いだ。その最中で隣に座るコウモリみたいな服装の一八歳から、なにか話を引き出してあげるべきだろうかと考えた。考えてみればこれまでやつの考えは、突拍子もないことばかりだと片付けてきた。チカさんとはもう六年間の付き合いになるが、マチとはたったの一年半しか同じ塾にはいないのだ。もちろん勉強を教えるという意味では、その数字の比較にはなんの意味も持たない。まるで古い映画の興行収入のように。ただし、マチの考えが分からないのも当然だという根拠としては、有効な数字に思える。
「私も高校に通っていなかったら、こんなお仕事をふたりに頼まなくてもよかったのかなぁ」
ぼやいたチカさんは、わざとマチの呟きと対照的に肩をすくめる。これが嫌味ではなく冗談として扱うには、相応の信頼関係がなくてはいけない。塾以外に接点なんて特にないはずのふたりの間で、こんな空間が作れるのだな。
「チカっちみたいに仕事を背負い込むタイプは、どこにいたって重労働しているんじゃないかな」
にやにやと、完全な悪役である。
「まあ、まるで自分がグリム童話の靴屋に出てくる小人になったような気になることはあるよ。便利にこき使われているなって、ため息つきたくもね」
この手の作業に慣れていない私とマチは、そこそこに膝や腕を汚すことになったが、チカさんは手以外にさしたる汚れは見当たらなかった。まっさらな手を擦っては布を見渡して、旗の完成を確認する。夕刻が近づいてくる濃い昼に、彼女はやっと終わったと肩の荷を下ろした。
「こんなこと言っているから友達できないのかな。いや、困っているわけでもないんですけど、あんまり多くはないんですよ、友達って言える人。小学校からの幼馴染が同級生にいるんですけど、今はかなり疎遠になってしまっていて。付き合っている人たちの方向性だって違うし……」
どうしても年齢重ねていくと、そうやって疎遠になってしまうこともあるよね。幼馴染という言葉に胸を痛めないでもなかったが、いつまで引きずっているんだとも自分を叱りたくなる。私がひとりごちたチカさんにかける言葉を検索している一方で、マチはドライヤーのスイッチを入れていいか確認をして、熱を端から順にまぶした。騒音は電車が通り過ぎる瞬間のように、そこにいる人間が喋らなくてもいい免罪を与えてくれるようだった。カラスが鳴き、子供が自転車で家に帰る。絵に描いたような日曜日の暮れ方。
「でもたまには小人さんに力を貸してほしいなって思っていたところだったんです。だから、先生もマチさんも、どうもありがとうございました」
チカさんの目には清々しさと申し訳なさが混在しているようだった。後者は抱く必要もないよと表情で返す。マチは数分間鳴りやまなかったドライヤーを黙らせる。
「ところで、南の方で台風ができたらしいね」
なんの話だと呆れる私を完全に無視して、マチは真剣な表情でチカさんを見た。
「一〇月の台風は強力だよ、気をつけたほうがいい」
「多摩川が決壊するとか?」
その必死さにどこか笑いが飛び出してしまったチカさん。マチがこんな風に真顔になることなんて少ないから、確かにその反応をしたくなることもよく分かる。おそらくはやつと同い年だったのなら、同じ態度をとっただろう。普段ならこいつの感情表現はなんて、常に他人事のようにされるのだ。カップの目盛りで量った数字を読み上げるようにされるのだ。我関せず、対岸の火事な言い草。
「TMGはともかく、ほかのところではありえるかもね」
口先だけで笑いに同調したマチは、不穏に言い残しクラス旗を丸め始めた。こっちも手伝うべきだろうと片方の端を持ち、真ん中からくるりとチカさんが布の筒を大きくしていく。雪だるま式、一次関数的ともいう幅の増加。数学の授業は受け持たないけれど、なんらか式にすることくらいならできそうな気がした。
「多摩川決壊の碑……ね……」
声に出したものの、二人ともにこの話題は拾われなかった。別に拾って欲しかったわけでもない。ただ目の前に会った文字を読んでしまったというだけのこと。しかもその文から想像したのは、この河川敷が水によって破壊されることではなく、もっと抽象的な世界だったからなおさら拾われなくてもいいのだ。
マチをちらりと見る。こいつもいつか、感情が決壊するときが来るのだろうか。計量カップの目盛りみたく、器用に気持ちを量ることができたとしても、手に負えない増水によって堤防が破壊されてしまうような瞬間が。
視線に気がついたマチ。多摩川を横断していた渡し船の停泊所跡あたりを見つめていたパーカーは、我に返ったよう。パチリと瞬きの間に、唇をいつもの口角に戻した。
「怖いから先生の家に避難しようかな」
「うっさいバカ」
やっぱりこいつはなにを考えているのか分からんな。考えるのも嫌になりながら、えっさほいさと神輿のように布を担ぎ、生田の山の中腹にあるチカさん宅へ向かった。あにはからんや重労働。今日も買ったご飯を頬ばろう。
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