ほかの女といたときに死んだ男


「ねえもう、本当にうるさいんだけど」


 うるさいってどういうこと。私はあんたのことをこれでも考えているつもりよ。そんな歳になって親にこんなこと言わせるの、恥ずかしいとは思わないの?


 おおよそ人の話し声には聞こえなかったのは、私が眠りへ落ちていこうとする浮遊感を味わっていると、スマートフォンがデフォルトの着信音をかき鳴らしたからだ。ラインの通知音に慣れきっていたから、下手な通報でも受信したのかと一驚した。


「私の勝手じゃん。そっちに迷惑かけているわけでもないし。口出さないでよ」


 そして始まった深夜の親子会談。相手は自分よりも二〇と少し年寄りの五十路手前。田舎では若いよねと言われ続けていた母も、すっかりそれらしい歳になったものだ。もちろん同時に私へも返ってくる言葉なのだが。別に若さに縋ってなにかをなしてきたわけでもないし、歳をとることにたいした抵抗もなかった。


『じゃああれからこっち、全然連絡も寄こさなくなって、なんなら無視するようになったのはどういうこと? 迷惑かけてないっていっても、そんなの心配するに決まっているでしょう』


 お互いにいい歳なのに、感情の話を持ち出してばかりだ。まあ、私の感情そのものが今日の議題なのだからしかたがない。どれだけ年齢を重ねても感情は消えない。一〇代じゃなくなる、二〇代じゃなくなる、そんな理由で感情が豊かでなくなっていくと思うのなら、そいつは単に、人生のことをよく知らない人間なのだろう。身近な人間について真剣に話をするときは、こうやって私憤が剥き出しになるものだ。


「はいはい。こっちも忙しいし返す気分にならないことだってあるんだよ。目くじら立てるようなことじゃないでしょ」


『そうやって繕うんじゃなくて、ちゃんと自分と向き合う時間を作りなって言っているの。お墓の前ってだけで暗くなりそうなのに、死んだ人と暮らしていた場所に捕らわれるのはもっとまずいわよ。ねえ、悪いことは言わないから引っ越しなさいな』


 話が回った。開口一番それを言われたときは意味も分からずこっちの語気も荒くなってしまったけれど、けっきょく話を聞いたところで納得できる内容でもなかったな。


「別にそんな必要なくない?」


 なくなくないと誰かがつっかけてきそうなことを言ってしまった。しかしながら、これが私の本心なのだからどうしようもない。恋人用の洋服棚から引っ張り出してきたパーカーを布団の中から引っ張り出し、顔をそこにうずめる。家賃も安いしスーパー、コンビニ、駅も自然も嫌というほどある。治安はそこまでよくはないけれど、どこが特別安全ということもないのが日本首都圏の特徴だ。だから、引っ越そうにもちょうどいいとなる場所がそもそもでないのだ。そういうことを、この人はよく分かっていないのだろう。


『必要とかそういう話じゃないの。あなたが塞ぎ込んでいるのを助けたいってこと。お金がもったいないのならこっちから出すから。ねえ? お父さん』


 さらに苦手な人間の存在をちらつかせるのは卑怯だ。しかしここで弱気になるわけにもいかない。こっちだって大人だ。


「だからいいんだって!」


『じゃあ、あんたはどうしたいの? これから先』


「は?」


『このままでいい、別に変える必要はないって。じゃああなたはこれからどうやって生きていくの? 一生そのまま塾講師を続けるつもり?』


 どう……と言われても。問われても返す言葉は出てこなかった。未来自分がどうなりたい、どういう風になりたい、そんな望みを持っていない自分は一生塾講師のままなのだろうか。まあ、このままなら必然的にそうなるのかもしれないが。そして、なにが悪いのかも分からないが。けれども、そう理路整然と述べられるほど信じられる選択でもないのはまた事実だ。このままでいいとも思ってもいない。けど、いまのなにが悪いのかだって説明できない。


『ねえ、意地なんて張らないで、一回こっちに帰ってきなさいよ。しばらくゆっくりして、また仕事探して、リセットすればいいじゃない』


 ありがた迷惑だ。どうしてそんなに構うんだ。私は自分でお金を稼いで、ご飯も洗濯も掃除もゴミ出しも一人でやって、つつましく郊外に溶け込んでいるじゃないか。リセットしないといけないほど、私の人生はゲームオーバー間近だというのか?


『そしたら、どうしたいかっていう展望も見えてくるはずよ』


「大きなお世話」


 寝床に横たわった彼の抜け殻を握りしめる。中身がないという点では、彼と同じような特徴を持っているのかもしれないな。笑っている場合でもないだろうに、なにゆえこんなことを考えてしまうのだろう。


『あのね、じゃあはっきり言うけど、ほかの女といたときに死んだ男のこと、いつまで引きずっているの? 忘れた方がいいこともあるの。親としてじゃなく、人生の先輩として……』


 腹の底に炎が灯ったのが分かる。痛みに似た衝動が皮膚を食い破ってしまわないように、黒煙を口から吐き出さなければならない。


「それ以上言ったら切る」


『いい加減認めて、あなたの恋人にとって一番大事な人は……』


 画面に表示された赤い丸をタップすると、耳障りな声は遠く地方へ消え去った。繰り返しかかってこないように、着信拒否にするのも忘れずに。今度こっちから連絡しなければならないことができるまで、延々とこのままにしてやる。


「みんな勝手だね」


 勝手なことを言うやつばっかり。人の心を勝手に見積もって、その精査もしないで話を展開して。他人になにかができると思うのなら、そんな思いやりもないだろう。しょせん人間なんてエゴの塊、とまで言うつもりはない。ないが、少なくともわがままであることは確かなのだ。だから、他人が強情を張っていてもしかたがないし、自分だって同じようなことをしているのだ。私は今、反撃に打って出ただけ。仕掛けてきたのはむこうなのだ。だから間違ったことはしていない。私だって大人げないとは思うけれど、同じ土俵に立ったのだから一方的に責められるのはアンフェアだ。


「そもそもあんたが死んだのがいけないのにね」


 自分ではない匂いを嗅いでからじゃないと眠れないから。また白いパーカーに縋りついては息をする。苛立ちを収めるには相応の時間が必要になるから、この夜が長くなることに疑いはなかった。他人の人生にとやかく言うのなら、あんたは一生田舎暮らしでいいのかとでも返してやるべきだっただろうか。あるいはこんな娘を持ったからには、さぞ思うようにいかない人生だろうねと皮肉ればいいか。電話を切ってから思いつく数々の罵倒を列挙して、相手に叩きつけた気になっている情けなさ。ただこうでもしないと、煮えくり返った臓物を抱えて眠ることなんてできやしない。


「どうしたいって……」


 そんなことを問う権利、どこの誰にだってあるもんか。四半世紀生きただけでそんなものが見つかると思っている時点でお気楽だし、もし自分は見つけていたと思う人間がいるのなら、そいつは単に視野が狭いだけの馬鹿なのだ。甘いものでも食べたかったが、コンビニに行くのも躊躇うような深夜になってしまっている。眠れもしない、なにもしないこの半夜、なんともったいない。府中街道と繋がるアスファルトから、景気いいバイクのエンジン音が鳴り響く。いっそエンジン吹かすなら、私の苦悶も笑い飛ばしてくれないか。

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