三八
一八日夜一〇時、ルグランという小さなレストランにおもむいた。家からも近いところにあるにもかかわらず、一度も入ったことのない店だ。線路わきの通りに面しているから幾度となく見かけていたし、昔ながらの雰囲気がする店先だなと好印象だった。価格帯からするに学生向けで、実際にどこかの大学サークルが飲み会で使っていたはずだ。
「……あっているんだよな……?」
真っ暗に汚れきった空は郊外の光を反射し変色していた。薄く、もやがかかったような雲と、光を失った恒星が場所の取り合いで揉めている。排ガスをまき散らしたトラックは、だれもが知っていコンビニのロゴマークを提げている。ファミリーマートとセブンイレブンに支配されているこの街と、個人経営の飲食店は釣り合わない。
意を決するべきだ。木枠のドアを動かすと鈴だかベルだかよく分からない、金属質な音が響く。一度も入ったことのない店内へ、コンバースは小さく偉大な一歩を踏みしめた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
白と黒、エプロンとブラウスがとてもお似合いなお姉さんが声をかけてくれる。私も笑顔で返事をし、テーブルとカウンターに分かれた店内を見渡した。家族連れやカップル、友人同士の会食が営まれているここで、ひとりの男性がテーブル席からこちらを見ていた。私をというよりかは、この時間に入ってきた人間をチェックしているという表情。とうぜん私とはなんの交友関係も存在しないのだから、彼はすぐに視線を外し、スマートフォンをいじりはじめた。
息を吸う。心配事やためらいが胸を締める。息が詰まるというほどでもないが、浅くなってしまうのは本当。殺されやしない。ちょっと話を聞くだけで帰ればいい。最悪、なにかあったらメリケンサックとハサミで応戦。よし、いくぞ。
「……あなた、マチの知り合い?」
「……え?」
虚をつかれ、言葉が出てこない様子。肌の淀んだ感じや、くたびれた表情から勝手に三〇後半から四〇前半という年齢が思い起こされたが、それはおそらくあの手帳に書かれていた数字が引き金になっている。
「いえ、知らないならべつにいいんですけど……」
「マチさんになにかあったんですか?」
食い気味だった。必死な言いかた、情が感じられる表情だったけれど、警戒は緩めない。この男がマチと会ってなにをしようとしていたのか、この懸命さの根源がどこに根差しているのかという部分がクリアじゃないから。
「……それって、失踪ってことですか?」
向かい合わせで座り、とりあえずと注文したジンジャーエールを飲んでから、まあそうとしか聞こえないし、言いようもないよなとうなずいた。
「あの子の手帳だけは手元にあったから、予定どおりの行動をとるかもしれないと思ってここに来ました。あとは、なにかあなたがあいつについての情報を知っていないか、ということも尋ねたかったので」
「……そんな……でも、やりとりしたときにそんな様子は……」
事情聴取をしているような格好だが、私も彼も、おそらくは混乱具合に大差はない。指定された店でだれかが待ち受けているにしても、なにか訳知りの人間をチョイスしているんじゃなかろうかという期待があったのだが、この男はどんな人間だろう。あるいはどこかでマチ本人が現れたりもするのだろうか。さすがに初日にそんなこともないか。
にしたって頼りなさげな挙動をする人だ。あたりに視線を振り乱し、いかにも自分は悪いことをしていますよというしぐさ。
「で、あなたとマチの関係は?」
というわけで聞かれたくないのであろう質問をぶつける。避けてあげたい気持ちもあったが、残念ながらそうしていては話のとっかかりすら見出せない。
「いえ……その……」
ああもう、じれったい。他人に言えないような関係を築くくらいなら、そもそも関わりなんて持たなければいいのに。簡単に断じていても埒が明かないのも承知で、しどろもどろになる中年の言葉をせっついた。
「マチが人と会って、どういうことをしていたのかはだいたい本人から聞いています。法に触れそうなことだったり、倫理的に問題のあることでも黙っていますから、くれぐれも正直にお願いします」
マチのことを心配するそぶりが本気かどうか、示してもらおうじゃないか。
「……私には妻と子供がいます。にもかかわらず、マチさんとたびたびホテルに行く関係になっていました」
小声だ。本当に私だけが聞き取れるレベル。テレビのリモコンを探してしまいそうになる自分を抑え、家庭人としてはそれなりに最低な人間の供述を続けさせた。
「まあそんなところなのは分かっています。で、今日は会ってからふたりだけになる予定だったんですか?」
「そうなります……」
ふむ……。アメノヒさんの真似とばかりに口元に手を当てた。さしずめ探偵のポーズというやつだ。今の情報からじゃなにを得ることもできないが、じゃあどうやればあいつに近づくようなものを掠めとることができるだろうか。
「三八という数字になにか心当たりは?」
手帳に書かれていた数字。これの意味について確かめるべきだろう。
「……私の年齢ですかね。今年で三八になります」
予想の範囲内。じゃあ手帳からのアプローチはやめておこう。
「マチがなにか物騒なことに巻きこまれていそうだとか、そういうことについてはどうですか?」
となればあの手紙、『となりの部屋に住む人間とこれ以上関わるな』という言葉と、それを忠告していたのであろう男について視点を変えるべきだ。
「……その、それこそ本当に言いにくいのですが……」
前のめりになった。逃がすわけにはいかない。
「なんですか?」
たじろぐ男。本当にうざったい。
「私と登戸で飲んでいるときに、マチさんへ因縁をつけた男がいまして、同じくマチさんに〝お世話に〟なっていた暴力的な男が通りがかり、そこから乱闘騒ぎになったことがあります……今年の八月の終わりくらいです」
それは時期的にも、ムギちゃんと私がこの街を並んで歩いていた日のことだろう。マチはその騒ぎからそうそうに逃げだして、私たちとばったり出くわしたということになる。そのおかげで交番から人はいなくなってくれたから、こっちはずいぶん苦労したものだ。とうぜん分かってはいたが、私のカンというわけではなく第三者の目線からでもあいつがなにかしら物騒な人間と接していたと証言されたわけだ。コンビニ前の黒い男だって、そっち側の社会に住む人間なのだろう。
「やっぱりその手の人たちに攫われたとか、あの人が大変な目に遭っている可能性があるんでしょうか?」
心配そうな目をしている。そんなの家族にでも向けてやればいいのに。
「いえ、ゼロと断言できるわけでもないですが、自発的に消えたというほうが正しいと思います。そもそも私があなたへアクセスできていること、その道筋を作っているのがマチ本人ですし」
「じゃあいったいなんのために?」
マチは近々人を殺そうとしている。かもしれないからなんて言えるわけもないが、あの言葉が関係していないと考えることもむずかしい。
「……それは分からないですね。ほかに知っていることは?」
「知っていることっていっても……会うのも四回目とかなので……」
口を濁してはうーんだのえっとだの、意味のない言葉を並べる男。マチの情報を聞きだすためにはしかたがないと我慢してきたが、こいつは家庭を放りだして一〇代の人間に手を出しているようなやつだ。目の前にそんなやつがいて、こっちも穏やかにコミュニケーションを取りたいと思うわけもない。いや、おのおのに事情があってやむをえず関係を持っていることもある。けれども、こそこそするくらいならやめちまえばいいと思うのだって勝手だ。他人に言うのが憚られるような愛情なら、私の生徒に向けるんじゃない。
「べつになんでもいいので」
「な、なんでもいいと言われても……」
うるせえよてめえで考えろ。
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