南極?


「マチちゃんといっしょに、いつか南極に行こうねって約束をしてたのに。なんだか心配なことになっちゃったわね」


 おっとり。その人の口調を表現するにはぴったりな言葉だった。一一月二〇日、二六歳の女性と話している場所は登戸の「あじこや」という店。半個室のボックス席で、靄がかかったような薄暗い照明にドギマギしているのは、ふだん外で飲まない私だけだった。


「な、南極?」


「そう。南の極みと書いて南極」


 なにやら漢字で書いてある日本酒的ななにがしを口で転がし、顔色ひとつも変えないところから、強い人なんだなぁとある意味で尊敬した。カウンターに並べられている酒瓶の数々は、下戸に対し威圧感しか与えない。


「ペンギンと会いたいねって話はしてて」


「そんな簡単に行けるもんなんですか……?」


「私が前に行ったときは二〇〇万円くらいかかったかな~」


 ひょえ~。何年貯金したら到達する金額だろうか。私とそう変わらない年齢なのに、ご立派なことこの上ない。


「ううん、私も親に半分出してもらったから。いちおう太いんだよね、実家」


 それにしたって憧れるものだ。南極に行くかどうかはともかくだが、海外に他人の金で飛んでみたいと思ったっていいじゃないか。


「でもマチもそんなことに興味を持っていたとは、知りませんでした」


「黄金のレーニン像を見にいくんだって、命知らずなことも言っていたわね」


 不能到達極に行きたいとのたまわっていたとな。人類が到達する場所としてこれ以上に難易度が高い場所なんてそうはないだろう。自分の行けない場所に行きたいにしても、もうちょっと現実的な道を選んでくれないものだろうか。グランドキャニオンとか万里の長城とかマチュピチュとか。世界史のネタでいけば3Bとか3Cなんかをめぐればいいんじゃないか。勉強しただけに感動もひとしおだろう。


「でもレーニン像って氷の上にあるおかげで移動しているんですよね? 不能到達極としての機能を果たしているといえるんですか?」


 ソ連の南極探検隊が置いたという、南極大陸でもっとも海から遠い地点の目印。人類から一番遠い場所。黄金のレーニン像。ご丁寧にモスクワを向いているというのだから、話を聞いたときには笑ったものだ。つるふさの法則よろしく、スターリン以下も並べてゴルビーまで網羅すればいいのにと冗談を飛ばしたりもした。


「功績を称えるためにいちおう現在でもそういう扱いにはなっているらしいよ。でも私も冒険には詳しくないから、詳しいことはマチちゃんに聞いて」


 へらへらり。迂闊に開いた口が印象的だ。


「聞けるといいんですけど……」


 しかしながら、これでふたりに話を聞いてもマチ捜索の要領は得られなかったことになる。開口一番に知らないと言われては、引きだしようがないじゃないか。マチについての話題なんてお互い事欠かないとしても、今必要なのは知られざる秘話でもなんでもなく、ましてや不能到達極のありかでもない。


「……心配?」


「そりゃあ……まあ……」


 私も人の子だ。マチが家に帰らないでどうしているのか、なにか苦しい目に遭っていないかということに気が向かないはずもない。あいつならきっと大丈夫だろうと信じたい気持ちはやまやまだ。けれど……。


「あいつを孤独にしていたのは、私の信頼だったのかもとか……思っちゃうじゃないですか」


 マチはいつだってひとりだった。高校にも通わず、こんななにかがあるようで実態はなにもないような郊外で。私はそれを目撃したわけじゃない。マチと一日中いっしょにいたこともない。一度だけいっしょに出かけたこともあるが、それはチカさんを守るための共同戦線。あいつがだれかと、セックス以外で繋がっているという話、友達と認識している人間の話は聞いたことがなかった。だからこそ、マチと日常の、昼の世界で関わっていた数少ない隣人として、あいつが失踪してしまった原因を背負わなければならない。


「イズミさん……でしたよね。私はあなたの話を何回か聞いたことがあると思います。見ず知らずの中学生にお願いされて、セミ探しに何日も時間を無駄にするくらいのお人好し。きっとそうよね?」


 あいつ、そんな勘違い談を肴にこの女の人と寝てたのか……。許すまじ。


「は、恥ずかしい話ですね……同一人物だと思います。はい」


「愉快な日常の話は聞いたことあるけれど、あの子が寂しくて辛かったなんて話、ついぞ聞いたことはなかったけどなぁ。多摩川決壊の碑のそばで絵を描いていたとか、いつだって愉快そうに喋ってた。愚痴があったら言ってくれるような関係も築けなかっただけなのかもしれないけど……」


 クイッと日本酒グラスを傾ける。水でもそんなペースで飲まないだろうという勢いで胃袋に収まっていくアルコール。もう消毒液でも飲んだほうが安上がりじゃなかろうか。


「……そんなことを気にしていたら」


「そう、他人と関わってなんていられないのよ。多摩川が決壊するかもしれないといって、近づかないで生活するのも嫌でしょう?」


 危険を怖がっていても旅には出られないのと同じ。どこかで呑みこんで、こういうものだと割り切るしかないのだ。マチがなにを思っていたのかなんて、疑いだしたらキリがない。正確な不能到達極を探るより、黄金のレーニン像を目印にしてしまったほうが都合のいいということと、理論的には大差ない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る