渡し船


「それこそ昔は登戸から東京は狛江市に行くのだって十分冒険だったんだ。なんたって船を使うしかなかったんだしな」


 向ヶ丘遊園近くの「炙里」という創作料理居酒屋。私が大学サークルの飲み会で多く訪れていた、訳の分からない食べ物の絵が描かれた壁と、木目調の長机がならぶ店内。暖色の照明は店内全体を包みこむようで、嘔吐禁止の旨が書かれた洗面所と横のトイレ。なにもかもが懐かしく、ついついあちこちを眺めてしまう自分がいる。


「そうなんですか。橋を架けるとか、そういうのはなかったんですか?」


 長いことなかったらしい。ハイボールをまた空けた男。今日は四五歳の人がマチと会う予定だった。これまでの人と同じようにがっかりとした表情を浮かべたあと、代わりに寄こされた私とマチについての情報交換を行うという流れ。三回目ともなると慣れてきたところだし、同時にあいつの居場所に近づくきっかけを掴めないものだろうかと焦る局面でもあった。


「今でも登戸から狛江に渡る橋は水道橋って呼ばれているだろう? あれはもともと、本当に飲み水を供給するためだけの橋だったのを、新しく作り替えたときに道路をつけ足したんだ。それができる戦後間もなくまで、登戸には渡し船が営業していたってわけだ」


 ビール腹としかいいようのない、弛むようについた彼の脂肪。トレーナーの上からでもはっきり分かるほどだ。カウンター席でカルパッチョを食べている男と、オレンジジュースを吸っている女。弾んだ話題はまったくもって有益ではなく、マチの話とも少し逸れているような気もした。コントロールできないまま、気がついたら流れてしまうというものが、会話でもあり寄り道でもある。


「俺も直接乗ったわけじゃないが、子供のころの親父が船に乗っている写真が残っている。小田急線の開通も人離れに拍車をかけたと嘆いていたな」


 苦く笑う人。


「どんな社会にも、不必要なものや不都合なものを解体しようとする勢力は存在する。最大多数や、あるいはバランスをとるための組織にとっての不利益を排除するやつらが」


「それは、昔の話ですか?」


 チラついた黒い服。


「昔からの話だ。べつにここだけの話じゃないが、人が大勢いればルール以外の決まりや律が必要になってくるってな。マチだってそういう話ばっかり聞いてきたもんだ」


「そういう身近な歴史にも、あいつは関心を持っていたんですね」


「俺は地元育ちだし、無駄な知識があり余っているのさ。与太話をするだけで若いやつに喜ばれるんだから、こっちも嬉しくなっちまったんだな」


 私もこの街に来てそれなりに経つが、まだ一〇年も住んでいないと表現すればとたんビギナーに思えてくる。この人はもう半世紀近くこの街で生活してきたというのだから、比べてしまえば私はひよこのひよっこ。


「お前さんの言うよう、マチが姿をくらましちまったことが考えなしに行われているわけでもないだろう。しかしな、あいつがなにか心に闇を抱えていて、それが爆発するように消えちまったんだと考えるのは、時期尚早なんじゃねえか」


 私が知らない人にマチのことを訳知り顔で話されるのは何度経験しても不思議な気持ちになった。なんでもこの人はもう二年もマチと定期的に飲んでいるというのだから驚きだ。私と同じくらいの長さ、この人はあいつとさまざまな他愛もない話をしていたということになるのだ。


「ほかの人にも似たようなことを言われました。でも、マチだって人間ですし、ティーンエイジャーまっただなかじゃないですか」


「気持ちは分かるがな、先生さん。マチを年齢で量ることがどれだけ無駄かなんて、お前さんが一番知ってないとだめなんじゃないか?」


 がっしりと太い腕が組まれ、堀の深い顔が歪む。彼にもマチの失踪を肯定的に修飾する言葉は持っていないようだ。表情では気を揉んでいるのに、私の不安をどうにか払拭しようとしてくれている話しかた。


「かわいい子には旅をさせよ、ですか」


「違いない。あいつの好奇心や行動力はかわいいなんてもんじゃないがな」


「いやもう、まったくです」


 世界史の授業中、教科書にも載ってないような疑問をどれだけ浴びせられたか。私も仕事だからしかたがないのだが、職場にいる時間以外も世界史知識を大量に摂取しなければならなくなったのは大変だった。


「マチが高校に行かなかった理由からしても明らかだろ?」


「ま……そうかもしれませんね」


 そんなことまで話していたのか。


「あいつは旅のなんたるか、冒険のなんたるかを分かっている。となりの駅に行くだけで観光客になれる素質がある。だから、いつか帰ってくるのならどこに行っていても構わないと思うしかないさ」


 黒猫みたいなもんなんだから。末尾を結んでまたお酒をあおる中年男性。周囲にはまばらな客足が入れ替わっていって、楽しげな会話で盛り上がっている。大学生の姿は見えず、今日は背広が往来する風景。


「もし、帰ってこなかったとしたら……」


「俺たちは渡し船と同じさ。マチに使われなくなったのなら、あいつの人生から解体されるだけだ」


 バングラディシュの解体業者に頼みましょうか。おもしろくもない自己卑下は、オレンジジュースで流しこむ。

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