逆鱗


 彼女が寝静まったのは、きちんと身体を温め私のパーカーを着てからのことだった。ベッドを渡してしまった以上、今日はリビングで雑魚寝でもするかと算段をつけた。一一時な針に彼女の親は心配しているだろうなとため息を吐いた。いちおう彼女には親御さんに今日は帰らないと連絡しろとは言ったが、疲弊しきっていた状況でそれが正しい形で行われたかという確証はない。だからといって台風渦巻く夜の街に放り出すわけにもいかないだろう。


「……やれやれだ」


 私はこれからどうするべきだろうか。やけになって眠ってしまえば楽なのだろうが、脳みそが混乱という泡立て機で難渋にされたせいで、そう落ち着くこともできそうにない。濡れていたコートなんかをエアコンの通気口付近に持っていって乾かしながら、できることはなんだろうと考える。


 もちろん、私にできることなんてなにひとつとしてないだろう。彼女に降りかかった理不尽は彼女自身の力で跳ね除けるか、あるいは逃げ延びるしかない。ただ、本当にこのまま手をこまねいているしかできないのか? どうせ結末が変わらないからといって、足掻くことすらしないのか?


「……」


 ゾンビのような足どり、腐乱しつつ廊下を歩く。リビングデッド、まだ死にきれていない勝機に向かう。躊躇いばっかりが胸にまとわりつくけれど、立ちはだかるのは嵐がもたらす突風だけれども、ドアを大きく開けはなそうじゃないか。逆転のホームランの打てるのは、どうせ私じゃないのだが。


 ドアノブが回る。


「こんばんは」


 捻ってもいないのに。


「徹夜になるけどいい?」


 珍しく正面玄関から突入してきたマチは、ビニールで巻かれた白い布を抱えていた。雨合羽の中で笑っているかと思いきや、見たこともないような冷たい表情をしている。平安貴族の書物のようにぐるぐると年輪を描いたそれをどうするつもりなのか、聞く必要もなかった。


「どこで買ったのか、聞いておいてよかったよ」


「でかした。リビングでやるわよ。こっち」


「はいよ。完成図も写真で貰っているから、できる限り再現しよう」


 背負ってきたリュックサックの中からこの間と同じようなアクリル絵の具が発掘されていく。そこいらの使わなさそうな鍋に水を張ってきては並べ、写真になるべく似せるように校章の線を引いていく。ここさえ大きくずれなければ、ほかのクラス旗と並んでも大丈夫なはずだ。しっかりと肘を軸に引いていく。これが私の手癖。


 作業は黙々と続いた。すばやく下書きを済ませば、今度は塗りへ。おおざっぱに塗料をぶちまけていく私たちは、いつものような減らず口をいっさい叩かなかった。私とマチ、どちらにとっても得するようなものでもないのに、ただひとりの女の子のためだけに日付も丑三つ時もなくしてやった。三年一組の復元を目指す。身体や床が汚れようとも構わないから、ただ目の前の白を塗りつぶすことに集中する。いつもの授業もこれくらい頑張ってくれればいいのに、マチだって背景の青を伸ばしきったらそのほかの文字になんかを急ぎ書き足していく。


 これが本当の小人というものだろうか。夜をまたぐ労働には特別な手当てが出るべきだろうに。そんな現金な理由がなくても、私たちには問題がなかった。必死に書いた台本、パンクした自転車、押し付けられたクラス旗、消えたUSBメモリ、燃やされた努力、彼女の涙。思い出せば出すほど力が湧いてくる、こもってしまうというのが正しいのかもしれないが、眠いだなんてかけらも思わない。一夜城を建てる木下藤吉郎がごとく、敵を思いながら急ぐ工作は、間違いなく感情ひとつで行われていく。



「……終わったね」


「……そうね」


 写真そのままとはいかないけれど、いちおう同じ絵に見える図像を作成することはできた。細かいところまで詰めてあげられなかったのは残念だけれど、彼女に対する小人としてはある程度仕事ができただろう。


「いや~よかった。先生、これで一件落着だね」


 挑発するような笑みが戻ってきている。こいつもこいつなりに余裕がなかったということなのだろう。朝になっているはずの時間なのに、黒雲に覆われた空からは光一本と覗いてはこない。こんなんじゃ夜も終われないし、落着と放棄できるわけもない。


「……私は……まだまだ怒っている……」


 クスリと息を吐くマチ。どうせ心では「待ってました」と言っているだろうに。


「怒っているのは結構だけど、じゃあ先生」


 マチが続けて口を開く。わざとかというくらい、逆鱗に触れていく。


「先生はどうしたいの?」

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