常識なんですよ


 インターホンの音で起きたのか、それとも窓を叩く突風で目覚めたのか、判別もつかないまま寝室を出る。自分があのまま眠ってしまっていたと気がついたのは、廊下の壁に手を突いてから。家中を取り囲む地響きのような音が、台風のせいで巻き起こっていると気がついたのも同じタイミングだ。目が覚めていく意識のなかで依然として謎だったのは、誰が訪ねてきたのであろうかということ。ひょっとしたら彼が帰ってきたのかもしれないという期待と、あれは夢なのだと現実を修正する理性が格闘している。なんの迷いもなく歩けるようになったのは玄関に辿り着く最後の一歩くらい。癖になったチェーンロック状態でドアを開き、訪問者の特定をする。これをしなかったら、よく恋人にどやされたものだ。


「……先生……?」


 玄関を開ける。訪問した側から疑問符を打たれたこともそう記憶にはないが、ともかくは残った眠気が吹き飛ぶような相手が目の前にいて、彼女が折れた傘を抱えていたということのほうがよっぽど重要な事件だった。


 遠雷が街をノックする。空気が震え、フラッシュを焚いたかのような光が弾け飛んできた。


「とにかく入って!」


 チェーンを外し、チカちゃんを部屋の中へと引っ張り込む。彼女が持っていた頼りない傘は靴箱にもたれかかった。


「先生? 先生はマチさんといっしょに住んでいるの?」


「へ? そんなわけないでしょ。で、どうしたのこんな急に?」


 こんな時間に、と付け加えようとしても今が何時なのかが分からん。またひとつ雷が落ちる、近いぞ。あのバカが言っていた通り、この台風は強力だ。塾長がほぼ明日の開校を諦めていた理由もよく分かる。天気予報で雨だということぐらいしかチェックしていなかったあたり、テレビの購入も考えるべきだろうかと悩むものだ。


「……すぐタオル持ってくるから……!」


 なりふり構わず収納された布を掴む。すぐにでも持っていくべきだろうに、客人に見せても恥ずかしくないような弾力のそれを見繕ってしまうあたりが凡人だ。


「そんなに濡れてないんで大丈夫です……ここに来る直前で壊れただけなので……」


 その一瞬で髪の毛も見てわかるくらいには濡れていて、羽織ってきた秋用のコートも水が染みてしまっている。頭をとにかく拭かせて、着替えを用意するために寝室へ。彼女は私よりも幾分背が大きいから、余裕のあるパーカーなんかをセレクトするしかなかった。それでも無理なようなら、恋人が着ていたジャージなんかを渡すしかないだろう。


「着替え置いておくから、あとお湯も張っておくからすぐに温まって」


「……先生……」


 見れば彼女はまったくタオルを放置しており、休憩中のボクサーのようにうなだれている。エアコンの設定温度を上げて対応しつつ、勝手で申し訳ないが私の手でゴシゴシと、水分をふき取らせてもらう。


「とにかく温まってから。ね?」


 この部屋に来て風邪ひいたなんてことになっちゃ信用問題だ。というかこの状態はなんだ? どうして私の家を知っているんだこの子は? そんでもってなんの用だ? この間のパンクの件だろうか。だとしたらなにを言ってあげるべきだ。私はあなたの味方だよって偽善をかますしかないのか?


「あと温かい物飲もう。緑茶と紅茶、どっちがいい?」


 とりあえずは髪の毛は大丈夫だろうか。しっちゃかめっちゃかな毛並みだけれども、健康には代えられない。


「私のクラス旗が、燃やされました」


 呟かれた一言は。ドラマみたいに落ちたりはしないが、玄関で彼女の傘が倒れる音がした。非日常が到来する外からではなく、日常的な家の中で鳴る騒音だ。


「……昼休みの中庭で燃えているところが発見されました。そしてクラスの誰ももう一度描こうという気になってくれませんでした。しかたないなってみんな言っていました。私はどうすればいいのか分からなくなりました」


 なにか言ってあげないといけない。絞り出そうとする言葉、けれど発せられるのは息ばかり。かろうじて彼女の肩を掴み、支えているような格好をつけている。無意味にして虚脱だ。


「チカさんは……」


 どうしたいの? とだけは聞いちゃいけない。なのに、私はいま、そう言いかけた。なんでもない、平平凡凡な毎日を過ごしている私ですら余るほど大きな疑問なのに、こんな状態の彼女になんて投げていい問じゃないだろうに。馬鹿か私は。本当に。


 彼女が今までどれだけ時間を割いてきたか、そのせいで成績を落とすこともなく、必死にやるべきことに喰らいついてきたか、私は知っているつもりだ。知らない面もあるのは分かっているが、私が知る限りの彼女は精一杯に他人のために奔走して、悪いことなんてしていないじゃないか。おそらくはパンクの一件と同一犯で、彼女のクラス旗のみが狙われたということなのだろう。捨てるでもなく隠すでもなく、焼くというのはこれ以上にない侮辱だ。


「……私はどうしたいんでしょうか……もう、分からないんです……」


 落ちたのは拭き損ねた雨粒ではなく、彼女が生んだ涙だった。やっぱり『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公を重ねてしまう。セルマは作中、何度泣いていたことだろう。タオル越しに抱きしめてあげるが、絞られた紅涙は止められない。こればかりはいいのかもしれない。打ちひしがれている人間は、こうやって悲しむのが一番なのだ。私だってそうやって悲しみをやり過ごしてきた。まだ牙をむき出しにし、立ちむかえだなんて言えるわけがない。強要する人間がいたら、絶対に許さない。


「分からないけど……」


 声のトーンが地を掃う。驚いてしまって、ハグを解いた。


「私は絶対に、こんなくだらない嫌がらせに負けたくありません」


 涙は確かに流れている。けれど、彼女の眼はそれを意に介することもなく、ただ無を捕えた自身の拳を見つめていた。


「チカさん?」


「もう許す理由はなくなりました」


 目は合わない。彼女は私を見ていない。


「一度行われたことは、二度と戻らないのが常識なんですよ」

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