『銀河鉄道の夜』にかんする批評文

 マチとはじめて出会ったのは、通っていたならあいつが高校二年生になるはずの春だった。生田緑地は桜が満開になっていて、靴の底にこびりついた花弁をアスファルトに擦りつけながら歩いたのを覚えている。岡本太郎美術館を望んだ段階でシャツの下に汗をかいてしまった不愉快に、春の最盛期を感じた。汗を拭いてから職場のドアをくぐり予習をする。その日の担当を確認し、見慣れない名前に眉をひそめた。


「体験授業ですか?」


「いいえ、入塾済みです。とりあえず現国をやりたいとのことです」


 案の定授業開始時間になってもくだんの子は現れず、一五分の遅れをもって問題児は登場した。こっちは待ちぼうけをこいていたわけだが、あっちは髪の毛に桜の花びらを乗っけて、さっきまであちこち遊び回っていましたという表情。場所から場所へ、上機嫌を運んで歩くような人間だ。直感でそう思った自分を、今でも私は否定しない。


「イズミ先生。ぼくはマチですこんにちは」


 筆記用具すらまともに揃えていなかったパーカーにシャープペンシルやらを貸しだして、用意されていた日常学習用のテキストを解かせる。自信満々な態度だったものだから、お手並み拝見と回答を待った。結果は可もなく不可もなくという一番おもしろくない成績で、どのように考えて選択肢を絞りこんだのかを聞きだした。


「内容はそりゃ把握できるし楽しいけど、選択肢のほうが解釈によりけりってなる問題が多い感じかな」


 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』にかんする批評文は気に入ったらしいが、出題者のほうが作った設問が気に入らないとのこと。高校現代文を真剣にやればだれもが引っかかる段差を説明するのは何度目だろう。気だるさを悟られないよう朗らかに、読書と国語という教科における読解が別物であるということを告げた。私たちが本を読むときに持っている解釈というイニシアチブを、勉強ではいっさい捨てるしかないという現実を。


「ああ、なるほどね。ルールが違うわけだ。行間を読むべきではない問題があるってことね」


「むしろそんなのばっかりだけどね」


「それって高校で教わることなの?」


「……進学校とかコースによってはって感じだと思うけど、必ずしも教員がそう言語化しているともかぎらないかな。あなたの学校ではどうなの?」


「ぼく高校通ってないよ」


 あっけらかん。


「え? あ、そうなの。悪いこと聞いちゃったかな」


「全然」


 あのバカ塾長、こういう特異ケースは事前に教えておいてくれって何回言ったら分かるんだよ。基本的には家族構成の話とかはしないように気をつけているし、お父さんともお母さんともいわず、「おうちの人」という表現方法に何度感謝したのか分からない。けれども、子供が学校に通っているのを前提に考える癖は拭えない。なぜならそれは、定期テスト対策なんかの実務的影響を確実に及ぼすからだ。たとえその子がひとり暮らしだろうと大家族を抱えていようと、この塾でやることは変わらない。でも、高校に通っているかどうかは、私の仕事内容に大きく関わる事情だろう。どうせ私ならなんとかするとか言うんだろうが、買い被りもほどほどにしてほしい。


「じゃあ失礼ついでに聞くけど、いつから行ってないの? それとも」


「うん、最初っからだよ」


 生徒は笑う。露悪的に自己の境遇を見せびらかすのではなく、人間それぞれの人生が違うのだというお題目を、本気で信じているのであろう振る舞いだ。この子のなかではすべての人間は平等に扱われるし、逆にいえば実力や能力だけを問うている。相容れないとまでは思わないが、そのレースに参加する気は起きなかった。


「だって楽しそうじゃなかったから」


 首を傾けたマチ。パーカーのフードから桜の花びらがこぼれる。床への軌道を目で追ったが、髪が邪魔をして着地の瞬間を見落とした。そろそろ髪を切ってもらわなければ。恋人の休日を尋ねて機嫌がいいタイミングでお願いしてみよう。ケーキかお肉か、対価はなににしようかな。あいつがこよなく愛している宿河原のケーキ屋は何曜日が定休だったっけ。たまにしか行かない店とは、こっちからうまく呼吸を合わせないと手痛い失望を貰うことがある。外耳炎で苦しみながらたどり着いた耳鼻科が、水曜定休だったことに気がついたときの絶望感を語らせたら、私の右に出るものはいないだろう。定期的に行くお店なんかとはそういう齟齬を味わうこともなく、生活の一部となって寄り添ってくれる。金曜日はサークルが終わったら「ががちゃい」というつけ麺屋へ。学生時代の私には永久不滅の再生可能エネルギーと感じられた黒つけ麺のように、週に一回ケーキ屋に寄ればいいだけだが、それもまた尊さが失われてしまうようでむずかしい。積雪の生クリームに鎮座する大ぶりのイチゴは、さながら岩のドームかタージ・マハルか。考えていたらお腹が減ってきたな。今日のご飯はどうしようか。今日は遅い帰りになるそうだから、ポトフとメカジキのソテー、ちょいとお高いパンも買うか。言うまでもなくパンは食べる直前にトースターで温める。手元にあるもので、できるかぎり美味しいものを!


 ルンルンで歩いた帰り道を終えようとしていた私は、自分の部屋とそのとなりに明かりが灯っていることに驚いた。駅前のライフから運んできたビニール袋を度外視したステップで一四段を駆け上がり、鍵をくるりと回した。


「あ、おかえりイズミ」


「ただいま……早かったね」


「うん、今日はミチル休んじゃったから。風邪だってさ」


「あーね。季節の変わり目だもんね」


 洗面台で手を軽く洗い、寝室ですかさずスウェットに着替える。楽な格好でいる時間は一秒でも長いほうがいい。


「ところでお客さんが来てるよ?」


「はい?」


 こちらも話があったのだけれどな。おとなりにだれか越してきたみたいだよ。しかしながら先手を取られてはしかたない。リビングに入って、電気ケトルのスイッチを押しながらテーブルへ視線を。そこにはたしかに私と彼以外の、ひとりの小柄が座っていた。


「あ、先生~。おかえりなさい」


「え! えええ! え?」


 あ、え、あー。うん。え?


「……知り合いなんじゃないの?」


 私の混乱に戸惑う彼を無視し、水の沸騰を待たずに黒いパーカーへ距離を詰める。なにが起きているのか呑みこめないが、ともかくは話を聞かないと始まらない。どこから質問したものか、まるで分からなかったが。


「マチさん?」


「そうだよ?」


「なにしてんの?」


「お邪魔してんの!」


「いやなにしてんのよ!」


 己の髪をわし掴んでは首を振る。なんだって仕事で相手をしていた生徒が家に帰ってまでいるんだ。しかも我が物顔で、あまりにも堂々と。まるで自分の家みたいに。


「ぼくの家、となりなんだ。だからこれからよろしくね」


 さらりと言っては立ち上がり、恋人が愉快そうな表情で淹れていたコーヒーを受け取りにいったマチ。なんでお前ら仲良さそうなんだよ。二万歩譲ってたまたまとなりに越してくることは許容するが、親密な関係になる必要なんてないじゃないか。生きていくために隣人と仲良くすることなんて必須じゃない。コーヒーが生存に必要ではないのと同じだ。嗜好品なんだよ、カフェイン泥水なんて。


「でも楽しいならいいじゃん」


 マチさんの腹が立つような笑顔。ほとんど初対面なのにどうして明るい未来を疑っていないのだ。塾の講師の態度なんて、六割がた演技みたいなものなんだ。営業スマイルをここでも要求されちゃ堪らない。どうにかして追っ払えないか。コウモリみたいな見た目だし、高周波とか流せばいいだろうかな。

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