この時間の給料


 あれよあれよと積みあがっていく白い皿たちを誇らしげに眺めるパーカー。倒れたらまずいからやめろと言っているのに、聞き受けることはついぞなさそうだ。


 もう私は数皿の寿司とデザートまで頂き、マチが食べ終わるのを待っている状態だ。なのに、二〇皿を超えてまだまだこれからだと四皿の中トロを注文するのは目の前のバカ。周囲の客たちも一周して、ほとんどの面々が入れ替わってしまった。


「お皿来たら取っておいてね~」


 羽根が生えているかのような軽やかなステップで座席をたったマチ。お手洗いにでも行くのだろう。目線を途中で切ってはため息を吐いた私。事前の奢ってやろうという考えを放棄して、なんとかして半分は向こうに出させようと交渉のシミュレーションに入ろう。この調子ならやつはあと一〇皿だって平気な顔で食べるだろう。私があれだけのお寿司を胃袋に入れたのなら、内臓が細胞ではなく鉛製に変わってしまったような顔と足取りでトイレに歩いていくはずだ。それと比べてどうだ、マチの口は胃ではなくあのオーバーサイズパーカーの内側に繋がっているとしか思えないほどの余裕っぷりだ。このままじゃ自分の腹を一ミリも満たしてくれなかった寿司のせいで、財布を痛めることになるではないか。別に払えないということじゃないが、払いたいとは思えない出費だ。


「あれ、先生?」


「へ? ああ、トモエちゃん」


 紫のシャツ、花柄のスカート、真黒なタイツ、生真面目そうな夫婦の後ろから飛び出してきた中学生はもっぱら私が担当している生徒本人だった。いつも塾に来るときとは違う恰好ではあるけれど、メガネと顔の調和の具合ですぐに分かった。少し面長な彼女には、丸に近いヘキサゴンタイプのそれがよく似合っている。


「え? 誰? お知り合い?」


「ああ、塾の先生」


「これはどうも、こんなところでお会いするとは……」


「いえいえ、いつも娘がお世話になっております」


「そんなそんな、いつも真面目に取り組んでくれていて、こちらが助かっているくらいでして……」


 おい誰か、税金納めるからこの時間の給料を出してくれ。


 おそらくこういう事故は自宅から徒歩圏内で働いている人間にとっては、それなりにある話なのだろう。私だってここまでクリティカルとはいかないまでも、親と歩いている生徒とすれ違うなんてことは茶飯事だ。だからこそ、日常のなかのちょっとしたズル、信号無視やポイ捨てに列の割り込みなんかはいっさいするべきではないと心に誓ったものだ。元からその手の悪事をはたらくような人間ではなかったと自覚はしているのだが、より一層肝に命じたというべきだろうか。だからこそ、このトモエちゃんとの遭遇は、くら寿司にいる間の私が恥ずべき行為を行っていないだろうかと反芻させるに足る出来事だったのだ。そして、唯一にして最大の汚点に思いいたるわけだ。大丈夫だろうかと額に指をあてて辟易していると、嵐が去ったのを見計らって白黒パンダが下水の入り口から帰ってきた。


「いや~災難だったね~」


 とっても嬉しそうな声だ。人の不幸はなんとやらというが、さっきタイを食べているときだってそんな美味しそうな顔をしてなかったじゃないか、お前。


「だからこんな近所の回転寿司なんて嫌だって言ったでしょう? あんたはいいかもしれないけど、こっちの身にもなってよね」


「分かってるよ、まずそうだなって思ったから遠巻きから見てたんじゃん」


「……そりゃどうも」


 視界の端に映っていたから知っている。いちおう講師と生徒という身分である以上、こうして外で会っているということはコンプラに違反している。ただまあ、塾長も私とマチが隣の部屋に住んでいるということは分かっていて、ほとんど特例的に、なにか問題を起こさない限りは好きにしてくれという態度だ。私に対しては本当に甘い判断を下す人だ。そういうところも好きになれないわけだが、それはまた別のお話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る