ようこそ、イズミ
夜明けを迎えられたことを感心しつつ、水道橋を渡って東京都へ。少し距離があるからそれまでは音楽でも聴くかとイヤホンを耳に入れた。どうせだしアップルミュージックでひさしぶりに出会ったトーマでも聴いておこう。曲はとうぜん『オレンジ』だ。
ここをふたりで散歩したことがある。何度も。恋人と私の歩調は自然と合って、考えてみればむこうが合わせてくれて、多摩川の移ろいを塞がっていないほうの手で指さした。ただ風景を眺めているだけなのに、流転する地球を生き映す空や水面に風情を覚えながら、くだらない冗談を交わした。このあいだ乗った「センター・オブ・ジ・アース」で浮き上がった内臓について語り、今日も帰りが遅くなるかもと告げられ、握る手の力が感じられなくなった。あのときのことを思いだすくらいなら運動不足になった方がましだと、我が家にあるもっとも運動に向いているスニーカー、ナイキエアマックス200は封印処置をされている。あの人に買ってもらったプレゼント、オンボロだったうえに一年間も放置されちゃ、まだ使えるか怪しいな。確認もしたくない。見たくない。
彼が大切にしていた幼馴染には、悪いことをしてしまっただろうか。私はもっと愛されたかっただけなのだ。許してはくれまいか。土手を歩く。すれ違う人はないが、そのうちジョギングに興じるやつらがあふれることだろう。紛らわしいからやめてくれ。この風景を見ながらとなりに並ばれると、どうしたって望んでしまうじゃないか。
顔を上げ、川沿いを歩くたび、期待を裏切られている。
「髪、本当に邪魔だな」
君の声、温もり、態度、愛のすべてに
さよなら。
さて、トーマの名曲も終わりを告げた。ずっと好きなボカロP、当時絶頂期だったPというとハチがいるだろうが、前から私はハチよりもトーマ派だ。レモンよりもオレンジ派と言い換えても問題ないくらい。しかしまさか、このタイミングでティーンのころに聴いていた音楽を流すことになるとは。
多摩川決壊の碑を過ぎていく。堤防が崩壊し、住宅を流した濁流を思うと、自分がここに立っていられていることが、奇跡かあるいは滑稽に思えてくる。ちっぽけにも、同時に。
路地を曲がる。そこに建ついくつかのビルのひとつ、目的にしていた灰色のそれを眺めた。一日のうち一番寒い時間だ。息なんて白いに決まっている。同時に熱を持ちはじめた空は、澄んで不純物を含まない笑顔を振りまいている。この世界に菌やらウイルスやらが存在しているなんて信じられないほどだ。自然や陽こそが、真の空気清浄機なのかもしれない。目に見えないキレイさよりも、目に映る奇麗さを望んでしまうし、人の思う美しいという感情は、どうしたって想像上の世界に羽ばたかせるには限界がある。
足を止める。コンバースは足を覆い、まさかここに入るんですかと怯えている。私だって怖いけれど、行くしかないんだからしたがってくれ。白いパーカーの袖を手中で転がす。声も温度も忘れたが、あのふざけた態度だけは覚えている。死んだら笑ってくれていいよ。私もだれかに言っておけばよかった。
「すみません、ここが解体屋ですか?」
朝早くからスーツの男性がふたり。なんの変哲もない雑居ビルの階段に座り談笑している。不動産の看板がそこに出ているが、本当にそうやって誤魔化すものなのだと感心した。
「ん? なにおねえちゃん、ウチはそんなんじゃないよ?」
大柄、一九〇センチはありそうな紺のスーツが犬をはらうように手を振った。警戒する必要もないという感じ。あるいは変なやつが来たが無害そうだから相手にする必要もないのか。
「危ないものの取り引きとか、なんなら人を殺めることもあるって聞いているんですが」
「違うって。たしかに俺たちこんなナリだけど、普通に働いてるだけだから」
もうひとり、片方よりは一〇センチ低いコワモテ灰色スーツがタバコの煙を吐いて笑う。関わんないほうがいいからやめとけって表情。なんならちょっと脅してビビらせてやろうかとでも思っていそうな、底意地の悪い顔だ。
「黒い服の男がいますよね、たぶん」
「そんな服着てるの世界中にいるよ」
「でもとびきり黒しかなくて、解体屋の首っていわれている人が……」
「いないって」
押し問答だ。埒が明かない。ふたりして嘲笑をしているのは、私の目が徹夜のおかげで据わっているせいだろうか。じゃあしょうがない。でも、おそらくはこう言えば動かざるをえないんじゃないだろうか。
「その人、先月の一七日に片瀬江ノ島駅に午後六時くらいにいましたよね? コンビニの前でタバコを吸っていた。私は彼に用があ……」
強い衝撃だ。身体が浮いたのか。
吐き気。出すものもないからよだれが垂れたけど、気にすることなく彼らは私を担いで階段を上る。というか、そうでなければ揺れている感覚を説明できない。本当は目の前すら見えないくらい痛みに意識を持っていかれていて、薄暗く埃っぽい階段にむせる自分でようやく此岸にいることを確認した。
やばいな、思っていたよりずっと怖い。考えたら怖気づいてしまうだろうから考えないようにしていたことを悔いた。頼むよ。でも、マチが来るなってことは、行けってことに決まっているんだから。あいつが嫌がることをした先に、あいつのやりたいことに私が触れる可能性が転がっているのだろうから。乱暴に引きずられる。頭がなんだか痛い。
ねえ、私の恋人よ。守ってくれだなんて言わない。守ってくれなくてもいいから、もしものことがあったらこのパーカーを取りにきてくれないか。そして、お互いがくたばったときの痛みについて話し合おうじゃないか。ネタになるなら、あんたが笑ってくれるなら、こんな苦しみも耐えるよ。
放り投げられるよう、たどり着いた絨毯の上。うずくまっては息をして、そのあいだにも蹴飛ばされたり物で殴られたりしないだろうかと気が気でなかった。大柄のほうがだれかに、部屋の奥へ言った。
「こいつダンチさんを知っているみたいです」
しばらくして視界が戻ってくる。涙が滲んだ視界を擦ると、そこには白い壁紙の一般的な書斎らしき部屋が広がっていた。壁が本でいっぱいだし、革張りの椅子にはひとりの男が待っている。
「ん? おいおい、こいつはべつに悪さをするやつじゃないぞ。まあ、無理やり来ようとしたんだろうが」
立ち上がると、このあいだとまったく同じ、黒ずくめの格好。部屋の中だから、上は黒のタートルネックという違いこそあったが。
「しっかし、ここまで肝が据わっているとは驚きだ」
不敵に笑うダンチと呼ばれた男は、私を見るや心底嬉しそうな顔をしている。お腹を押さえている女でそんな顔をするとはクズか。いや、どちらかというと讃えているという感じだろうが。まあ称賛だとして中身のなさはすさまじいし、とりまきのようにいつ豹変するとも分からない。
「ようこそ、イズミ」
お前に歓迎されるゆえんもない。とにかく私は、おそらく今はずっとマチに近い人間から、より多くの情報を仕入れなければならない。マチは、私がここに到達することをやめろと言った。ようするにここは、あいつの居場所を探すうえでのジョーカーなのだ。存分に使おう。そして知ってやろうじゃないか。たとえこの選択のせいで死んだとしても、狛江市で息絶えるとしても。
「……マチはどこ?」
水底に沈んだ街から、帰れなくなったとしても。
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