第六話 湧きでる涙の泉まで

スノッブ

「マチからひとつ、預かっているものがある。渡しておいてくれとな」


 書斎に残されたのは私とダンチのふたりだけ。とりまきたちはそれに異を唱えることなく、しかし不服そうに立ち去った。部屋を囲うように並んだ本棚には、分厚い洋書や日本近代文学作家の全集、一部には文庫本が詰まった区画もある。ナショジオの日本語版のバックナンバーなど、文学とは関係のない列もできあがっていた。本だけではなく、なになるのかも分からない原石や本物かどうかも知れない謎の骨、なんか汚れた布、さながら現代のヴンダーカンマーという様相だ。


「これって……」


 棚から出てきたのは花瓶に挿されていた花だった。見ればすぐに種類は分かる。菊だ、白い菊。幼いころ、おじいちゃんのお墓参りで持っていったこともある。


「出せば分かる。と言っていた。まあ、分からないのならばいいのだが」


 応接用のソファに座らされていた私は、テーブルに置かれた花瓶と花をしげしげと眺める。マチと私のあいだでこの花が話題に上がったことなんてあっただろうか。花、花といえばムギちゃんママのお店……私のへたっぴなスケッチ……。


「……ダンチ……と呼べばいいのかしら。この解体屋なる組織は今年の夏、人を多摩川に遺棄した?」


「……なるほど。あの花屋にお前は通っていたのか。しかし、これだけで気がつくとは、なかなかどうして、おもしろい発想をする」


 駅前の花屋。私がずっと通っていたあの場所にいた、優しい声をした店長さん。彼が今年の八月、死体となって川辺に打ち上げられていたと話したのはマチだ。ムギちゃんが私に、あの白い花はなんだと質問だってしてくれた。醜い死体と置き換わった花束は、とっくに世界から朽ち落ちていたが、私はまだ思いだせる距離にいた。


「質問に答えて。あなたたちが殺したの?」


 正確には俺たちではない。とダンチは弁明した。


「俺たちが仲介した人身の売買が目撃された。当事者たちは殺すつもりはなかったらしく、ただ川に落としたそうだが、結果はお前の知っているとおりだ」


 その取引の内容も大概だが、目撃者を消そうとする意地汚さがおぞましい。うっかりやりすぎて、そんなつもりじゃなく奪われていい命なわけがないだろう。奪われる理由が奪う側にはなかったなんて、通用すると思うのかよ。


「それがなんだ。あんたたちのせいであの人が、私の大好きだった花屋が閉まったんでしょ? 正当な理由なんてない」


「理由に正当かどうかなんて、基準があると本気で思っているのか?」


 目薬のようにポタリと落ちる言いかただ。反射的に瞬きをしてしまいそう。同時にむこうもソファに座った。


「少なくとも、人身売買なんてするやつらには分からないことよ」


「まあ熱くなるな」


「黙れよ」


「虐待を受けていた子供が売春で稼いだ金を使って手数料を払い、別の親に買われる突破口を作った。法には触れているが、買った人間も犯罪歴のない清廉潔白な起業家だ。今では身分を偽って、上玉のフリースクールから社会復帰をしようと努力している」


 ペラペラと述べられた物語は、シンデレラよりは華やかでないものの、童話になれるような救済の物語だ。


「それを断片だけ見て警察に通報しようとしたから、しかたなくご退場いただいた。とのことらしい」


 エスプレッソマシンのボタンを押して、ダンチは二杯のコーヒーを淹れる。口をつけるわけがないだろうと、私は顔をしかめた。


「べつにどっちが正しいという話をしたいわけじゃない。俺たちが、彼らが間違っていると言いたいのならば糾弾して構わない。だがそんな愚かな物言いに、俺が関心を抱くわけもないな」


 香ばしさを口に含み、中も外も黒ずんだ彼は深く息をついた。


「正しい考えにたどり着くのは簡単だ。ただし、それを振りかざすだけではだれも説得することなんてできない。対話で解決することは驚くほど少ないし、かといって暴力や実力だけで解決するのが正常な社会なのかと首も捻ってしまう。なあイズミ、考えかたの違うふたりがどちらも正しさを持っていて、かつ衝突してしまったときの解決策はなんだと思う?」


 長いセリフだ。こうペラペラと喋るタイプは御しにくい。利害で動いたり話したりするのなら誘導のしようもあるが、ダンチはそういうタマではないということだからだ。自身の疑問や考えに相手がどう返してくるのかによって、そいつに対する評価や対応を変えるつもりだ。まったく、大学の映画研究会の新入生に対する接しかたみたいじゃないか。


「そんなの決まってる」


 なら、お構いなしに言いたいことを言わせてもらおう。あいつの言うとおりこっちは熱くなっていた。徐々にクールダウンさせながら、主導権を渡しすぎないようにする。


「話し合わないで距離をとる。折り合わないことは話題に出さない」


 前髪の隙間から、ダンチの目を見据えた。


「さあ、違う話をしましょう」



 マチがどこにいるのか。聞いた段階ではひょっとしたらこのビルにいるのかもしれないと期待していたのだが、そうとんとん拍子にことは運ばないらしい。預かりものがあったということは、マチがここにいないことを示していた。ではどこにいるかと思考するほど余裕もない。徹夜で歩き回ったあげく殴られ、もう機能している脳味噌の体積もシラスと大差ないくらいに小さくなっている。温度感覚もおかしいし、妙に熱っぽいのだって波状攻撃を仕掛けてきていた。


「マチがどこにいるかという確定情報は、こちらも持ち合わせてはいない。がっかりさせて悪いがな」


 ダンチは私の淡い期待を一刀両断した。だとしてもまだ有益な情報を持っているはずだし、それすらないのだとしたらマチが持ちかけた知恵比べは、ゲームとして破綻していると評さざるをえなくなる。その場合は私が未熟だったと後世の歴史家が語ることもないだろう。


「でもあなたは私に言ったわよね、マチが近々人を殺そうとするって。その忠告の根拠はなに?」


「本人の発言と武器を買ったこと。そのふたつだ」


 私の知らないだれかとマチの会話。ここ数日聞き飽きるほど交わされたものだが、武器のほうならこっちも聞いたことがある。池袋で凶器を調達したという話はそこの河川敷でしたことがあるし、メリケンサックの装着も目撃したことがある。


「本人の発言って、マチが本当に人を殺すって話していたってことなの?」


「もちろんだ。やつの口からはっきりと、人をひとり殺すから武器を寄こしてほしいと頼まれた。取引をするような仲でもなかったが、まあ金は持っていたから売らない理由もない」


 窓から朝の音たちが差しこむ。バイクや車のエンジン音。ゴミ出しにでも来た人の咳。すれ違いざまに飛ぶ挨拶。物騒な人たちのアジトらしい場所なのに、案外生活に根差した場所に門を構えているものだ。今やこの手の人たちも地域密着型の商売をしているのか。というか、もともとそういうものだろうか。


「しかし、こっちにも生活があるからな。マチが下手なことに使ってしょっぴかれるようなら、俺たちまで芋づる式に持っていかれるかもしれない。だから一番側にいて、狙われていそうな人間に注意喚起をしておくことにしたわけだ」


 それで私のところに来たと。わざわざあんなドタバタした日を狙って。私とマチが客観的に考えて深く関わっているように見えるのはそうだろうが、だとしてマチにお命頂戴されないといけない理由とはなんだ。


「そこまでは俺も予測すらつかん。あいつが放蕩娘なのはお互い百も承知しているところだろうが、今回の行動にはさすがに驚かされている」


 かったるいと態度に出しつつ、背もたれに体重を預ける。男は耳のうしろあたりを掻きながら目をつむった。この時間じゃ起きた直後か寝る直前といったところだ。万全な人間なんてそうはいない。


「それはそうと、ダンチ。あなたはマチとどんな関係にあるの?」


 例に漏れずこいつもセックスフレンドだろうか。これまで会った四人はどことなくマチとアベックになっていても、まあなんとか納得できるところもあった。妻子持ちの男を強引にもてあそんだり、甘えるサクラさんに訳知り顔で対応したり、想像しようと思えば可能なラインだ。でもダンチという男だけは、どうにもミスマッチという気がしてしかたがない。抱き合うのも裸になるのも、興味を持ち合うような気がしなかったのだ。


「知りたいのか?」


「え、ええ……」


 なんだ。どんな爆弾だ。覚悟はあるのかと問うような目線にためらいを覚えながら、聞かないわけにもいかないのだから、腹をくくる。


「言うなれば単なる茶飲み仲間だ。あいつはよくここに来て、コーヒーを飲んでは本を読んでいた。この本棚のだ」


 ダンチの目線を追うようにして、ぐるりと視界を取り囲んだ蔵書の世界をめぐる。天井まで届く、古めかしくも力強く感じられるそれらを見ていると、ソ連の国立レーニン図書館を思いだしてしまう。べつに行ったこともないのに、インターネットの海で出会った画像に心奪われてしまっているだけだが。


「あとはそう、そこの書斎を借りて勉強もしていたな。あれは世界史なんだろうが、イズミが教えていたものか?」


「え、ええ……そうなるわね……」


 なんで反社会勢力の中心で私の出した宿題やってんだあいつは。頭が痛い。絶対徹夜のせいじゃないだろう。自分の予感が当たってほっとしたという反面、想像以上にマチがとんちきなやつだということが判明。もうだいぶ会っていないように感じられるけれど、存在感だけは一丁前だ。


「なるほどな、どうりで楽しそうに問題を解いていたわけだ」


「地歴公民はある程度できるようになるとクイズみたいに感じられるしね」


「いやそういうことじゃない。お前と話していた内容を反芻したり、受け売りのおもしろかった歴史小話を俺に紹介したりと、この部屋でのイズミの存在感はなかなかのものだったぞ」


 どこでも同じようなことをして……。ここまでくると多少なりともいじらしく思えないこともなかったが、そうやって知らず知らずのうちにこんな人たちに個人情報が知られていったのかと思うと、噂話もバカにできない。


「子供に勉強を教えるというのは、俺からすると面倒なことこの上なく思える。まっさらな紙に自分の責任で情報を植えつけるということを、よく引き受けられるものだな」


 それはマチにかぎった話ではない。どんな子だって知識がない状態に、なにかしら記録や記憶をしてもらう。それを促すのが私の仕事だ。人によってそこへの誘導手段が違うから、子に合わせた方法を探す。トモエちゃんにはトモエちゃんへの、チカさんにはチカさんが分かるように、マチだってそうだ。その選択権は常にこっちが持っていて、間違えればその子の進路が変動する。一日の説明がドミノ倒しで道を塞ぐこともあるなかで、最善手を探しつづける九〇分だ。それでいてお金を大量に貰えるわけでもないのに。考えてみればよくやっているな。


「だれかに影響を及ぼすことを恐れない。かといって横暴していいわけでもない。という一般的なことができれば、だれにだって勤まる仕事よ」


「フリーハンドで描く線が直線になりえないとしても?」


「そもそもでまっすぐ生きる必要なんてないしね」


 俺は向かないな。ダンチは諦観と息を吐いた。


「俺の仕事は〝解体〟だ。この街に不必要になったものや、必要すぎて周りに影響を及ぼすものを白に戻すことを生業にしている。そのほうが明確な基準で、確実な判断が下せるからな。俺の考えではなく、定規で測った数字がものを言う世界。シンプルでいいじゃないか」


「多摩川から渡し船がなくなったように?」


「あるいは氾濫の原因になった堰堤を作り直すように」


 それは大変そうなお仕事だこと。ソファの上であぐらをかくというパフォーマンス。これは前振り、名作のものまねだ。


「私は『東京物語』のおじいちゃんのように、ただ穏やかに過ごしていたいだけだし、子供たちに囲まれているとそれもむずかしくないわ」


「小津の画面構成のように、精密で緊張感のある生活が性に合うやつもいるのさ」


「彼の作品はそれぐらいしか観たことないから、今度その緊張感とやらを確かめてみるわ」


 ネットフリックスにあっただろうか。少なくとも『東京物語』はあるわけだけど、それ以外にかんしては調べてもいないや。


「じゃあ黒澤にかんしても似たようなものだろう。『羅生門』か『七人の侍』あたりが好きなのか?」


 明らかに小ばかにしたような笑みだ。若干マチに似てないこともない。ならばこちらも乗ってやろう。頬杖をつくにも机が低いからソファのひじ掛けにもたれることとする。


「『赤ひげ』が好きね。受験勉強で覚えた場所が舞台だったし」


「なるほど、そして今は世界史を勉強したから溺死するようなやつの店に通ったと」


 そう返すか。じゃあ絡めよう。


「私はどちらかといえば中世のそれより近現代のほうが好きだけどね」


「二次大戦期じゃ今度は凍死するやつらが大量に出たな。フリードリヒ一世も罪な男だ」


「そうね、イタリアもずいぶん生前の彼には迷惑したそうだし」


「まあそういう歴史的経緯があったからこそ、ミラノも芸術でのち栄えたんだろう」


「ミケランジェロとかね」


 さあどうだ。


「『最後の審判』か?」


 かかった。


「いいえ、カラヴァッジォのほうよ」


 いやなにスノッブしてるんだ私は。

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