多摩川決壊の碑


「たしかに困ったら誰かを頼ってって言ったけど……関わる人間は選んだほうがいいと思うよ……」


「えへへ、でもマチさんはなにか対価を求めたりしないので……」


「まあ、無理なことは言わないだろうけど……ねぇ……」


 明くる日曜日。私は世界でもっとも重要な案件である昼寝を切り上げるという、今世紀の最大英断をした。もう件の木には目もくれることなく、マチから指定された多摩川の河川敷に足を運ぶ。というと同じ場所にやってきたような気もしてしまうが、事実として私の現在地はこの間までの神奈川県側ではなく、多摩水道橋を渡った東京側の河川敷だった。直線距離にはたいした差はないが、道なりで考えれば一〇分ではきかないくらいには歩かなくてはいかなかった。


「そもそも同じ大学受験生ですから、意識はお互いにしていますよ。この間はいっしょに模試の会場まで行きましたもん」


「へー、じゃあこうやってふたりで遊んだりはするの?」


「いえ、それは全然。なんだかマチさんって自由に生きてるって感じで、人に束縛されたくないし、逆もまた興味ないって顔してません?」


「顔っていうか態度がもうそんな感じでしょ。それにいまだって……」


 クスリと笑う彼女。


「私が主役をやるって聞いたら、文化祭に来たいって言い出してて、そこも自由だなって思いましたよ」


「まあ、絶対に言うだろうね。今年は無理だろうに……」


 清々しく晴れた空を見上げると、青すぎて目が痛んでしまいそうになる。そんな蒼穹だって敵わないほど、マチは自由気ままに生きているらしい。その証拠になるだろうか、呼びつけたあいつ自身がこの場に現れず、お呼ばれした側の私が必死で筆を横一線と動かしている状況は。


「まあ、マチさんらしいですよね」


「そこを許しちゃうのはチカさんらしいけどね」


 そんなんだから次から次へと仕事を背負い込んでしまうんだろうが。と頑固親父として主張することもやぶさかではないが、そんなことよりも手を動かすのが今の仕事。周辺の原っぱには人影はまるでない。代わりに建っているのは「多摩川決壊の碑」と刻まれたモニュメント一つだ。できるだけ人が寄りつかないところを選んだ結果、彼女はここにブルーシートを広げ、持ち帰り仕事とクラス旗の制作をしている。おそらく私がいなければ、たったひとりだったのだろう。学校から拝借してきた画材のなかで、平べったいブラシをとってはひたすらベタ塗りで空よりも分かりやすい青を伸ばす私と、そのほか細かい記号やら文字やら校章の一部やらを描きこんでいくチカさん。子供の笑い声も聞こえずに、神奈川県側の用水路へと水を流すために作られた、宿河原堰堤をゆく水の叫びが響く午後。今日が雨だったら、きっと家で彼女は制作をしていたのだろう。本当にひとりきりで、誰に手伝ってもらうこともなく。


「にしても、クラス旗を作ってくれる人って誰もいなかったの? いくら文化祭実行委員だからって、これはクラス全体でやるもので押し付けていいものではないでしょう?」


「まぁ……そうですね。でもこれ、私のクラスのものでもないですし……」


「へ? じゃあなんでチカさんがこんな頑張んなきゃいけないのよ」


 バケツに溜め込まれた水をかき混ぜるようにして、アクリル絵の具を吹き飛ばす彼女に、ついつい正論を放ってしまった。まだ事情を知っているわけでもないが、けっきょくのところこの手の話が行きつく場所は、「チカさんが突っぱねるべきだった」という袋小路なのだろうから。


「隣のクラスの人たちが、どうしても期日までに作れないからって。文化祭実行員のメンバーも困っちゃって、結果的に私がやるからいいよって言っちゃったんです」


 文字の縁を象るための黒で覆われた筆が振られていく。私がやっている単調な塗りとは違って、曲線に富んだ技巧的な作業だ。私だってたまに花の絵を描いたりすることはあるけれど、こんな立派な道具を使うこともないし、誰かに見せるようなプレッシャーとも無縁だ。キャンバスにしたって、両手で広げきれないほどの平面を相手にしたことだってない。美術の授業なんて大の苦手だったから、高校のころには選択すらしなかったのだ。


「優し……すぎるね」


「早く帰りたかっただけですけどね」


 鼻で笑ったところをみると、どうやら本気で言っているらしい。それに私も鼻笑いで返した。下書きの上から色づいていく世界には、こんな屈託も本音も写ることはない。チカさんのご近所さんたちにはもったいないくらい、出し物である写真展のパネルを意識した描きこみは施されていった。


「まあ、あと一週間くらいで作ればいいんですけどね。それでも作れないってことは、本当にその気がないんでしょう」


「文化祭なんて多少はのめり込んでやらないとおもしろくないと思うんだけどなぁ」


「まあ、とうの文化祭が今年はちょっと内容変わっちゃっているので……」


「今年だけ?」


 なんのことだろうかと首をかしげる。こんな歳になると、やめたほうがいい癖だろうな。


「はい、今年だけです。各クラス飲食物は扱えないって感じで、敷地内にも事前に申し込んだ親族だけしか入れません。いちおう講堂を使っての劇や演奏はできるんですけど、文化部以外に割けられる時間は短いので抽選形式でしたよ」


「ああ……このご時世だしね。対策しなきゃいけないことも多いもんね」


 私だって授業が終わった後、教室のあちこちを消毒して回っているんだ。この子たちの諸行事に影響してこないわけがない。塾長が先に帰っていると特になのだけれど、そのせいで宣言が停止した五月からこっち、帰るのが遅くなってしまっている。


「だからやる気でない人も多いんですよ。まあ、分からないでもないですけど……」


 コンクールそのものが消滅してしまった彼女にとって、今年の本格的な公演はこれが最初で最後。それも人数も制限された、おそらくは望んではいなかったであろう形。人には運というものが付きまとうし、時期や環境の不満なんかを言い出せばキリがないのも当たり前。誰にだって悩みはあるし、それを引き受けていくことでしか人は前に進めないとも思う。だけれども、自分ではない誰かがそう強くあろうとする瞬間、こっちがどう思えばいいのか分からなくなるのも、引き受けがたい。


「だったら……誰かがやらないといけないことなので」


 強い意志だ。誰も望んでいないことを、自分だって望んでいないのに背負う力。お人好しといえばそれまでだけれど、彼女はそんな自分を信じていられるのかもしれない。あるいは、もっと手前で考えないようにしているだけかもしれないが。

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