靴屋の小人

 口走ってしまったが最後、箱根ロマンスカーよりも素早く山を駆け下りる。コンバースがここまでの唸りをあげているのは、花屋の娘さんを捕まえたとき以来だ。思えばあの一件以降、連続して面倒ごとを引き受けているな。恋人を失ってから、こうやって他人と関わるようなことは避けてきたのに。マチは例外として、だが。あいつはこっちの気持ちなんてお構いなしに訪問しては、くだらないことや男女関係の話を展開しては去っていく。通り魔みたいなやつなのだ。いま私が選んでいる択は、そういうなんでもない、忘れてしまいそうなコミュニケーションではない。生徒と深く関わってはいけないという原則を無視して、全速力を見せつけている。


 部屋に帰ったら手洗いうがいもしないで、そのままパソコンの電源をつけた。HDDが目覚めるまでの間で着替えを済ませるため、寒さも忘れて短パンに足を突っ込んだ。マチが読んでいたあの原稿を携え画面に向かい、久しぶりのオフィス、ワードソフトを立ち上げた。プリントを作る際はもっぱらエクセルを使っているから、パソコンも私の指示に驚いていることだろう。


 そのままA4用紙に書いてある文字を片の端から打ち込んでいく。もうちょっと賢いやり方もあるのかもしれないが、思いつくのはこんな愚直な方法しかない。熟考している時間ももったいないから手を動かす。腹が減ったら冷食のチャーハンをチンして、袋にスプーンを突っ込んで食していく。無心だ。目はずっと前だけを睨んでいる。


 キーボードを叩きながら、膨れ上がっていく怒りを指先へと移していく。次第大きくなっていく音が近所迷惑になるかもしれないが、いつも隣人からは迷惑を貰っている側なので気にすることもやめた。怒ってくるのならかかってこい。どうして彼女ばかりにこういう負担が舞い込んでくるのか、その説明をしてくれないと、おそらくはこの憤激は鳴りやまない。ついでに母さんとの会話も思い出して、理不尽といっしょにぶっ飛ばせないだろうかとキーをさらに強く叩く。


『もう私たちは元いた世界に戻れないのかもしれないね……』


 これも彼女が覚えているセリフなのだろう。自分で脚本を書いて、主人公のセリフを覚え、かつ部長として全体的な指揮もとる。口だけでもないし、ひとりでやるようなことじゃない作業量だったはずだ。そんな人間が報われないのは気に入らない。私みたいな、どうこうしたいっていう希望を持ち合わせていない人間が馬鹿を見るのは構わないし、人だってそんなの悲劇とは思わないだろう。しかし、彼女はそうじゃない。頑張ったのならその分、周りの人間からもお返しがあってしかるべきだ。誰もやらないというのなら私がやるしかない。


 徒労に終わるかもしれないその作業で一晩中キーボードを叩くはめになった。そりゃそうだ、夏休みの間ずっと制作してきた台本なのだ。ただの写しだって簡単にいってたまるか。私の打鍵が遅いというのもおおいに関係しているが、それはいったん置いておこう。これが靴屋の小人と同じような苦労か。眼精疲労に苛まれながら、数万するデスクチェアに体重を預ける。


『俺はなにをやっていたんだ……』


 自らの過去を目の当たりにし、夏休みに言った暴言を後悔している人物のセリフ。ここを越えればもうクライマックスだ。白んだ空は、もう六時になろうかという段階だ。窓の外には人影も見える。しかしちんたら進めてしまったものだ。今日は遅番だから眠れないことはないだろうが、それにしたってやりすぎだ。


「私もなにをやっているんだろうね……」


 ヒグラシの一件といい、自分の生活を捨ててしまいたくなるのはよくない癖だ。どうしてこうやって、イレギュラーに飛びつくような体質になったものだろうか。もしかして私は、なにかこういう非日常を望んでいる節があるのだろうか……。自分でそれは、判別できるのだろうか……正しい、間違っていると、断ずることが……。

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