第64話 猫はもふもふ、頬はもちもち

 真理音と付き合いだして何かが大きく変わるかもしれないといった不安があった。

 けど、それは驚くほどに杞憂だった。

 俺と真理音は何も変わらなかった。いつものように真理音がご飯を作りにきてくれて、一緒に過ごす。それが、サークルみたいに形成されていて繰り返す日々が続いていた。特別なことは何もない。恋人らしいことも一切起こらない。付き合う前と変わらない。変わったのは友達から恋人になったと心が意識するようになっただけだった。


 ただ、俺にはそれが安心だった。

 付き合ったから、恋人になったからといっていきなり特別なことを求められても対応できない。


 そもそも、そういう経験が極端に少ないのだ。琴夏と付き合っていたときも恋人らしいことをしていたといえば、一緒に弁当を食べたり、一緒に登下校したり、たまの休みに出掛けたり、とそんなことしかしていない。

 俺が覚えてる恋人らしいことは真理音とは既に済んでいる。

 だからこそ、その一歩先へと進むことが中々出来なかった。



「真人くん、今から散歩しに行きませんか?」


「いいけど……散歩でいいのか? なんか、もっとデートっぽいとことか行きたいなら言ってくれていいんだぞ?」


「のんびり過ごしたいので……それに、真人くんとふたりでいると何をしていても楽しいですから」


「じゃ、じゃあ、行くか」


 マンションを出て、いつもはあまり行かない方向に歩き出す。八月はまだまだ暑い。太陽がジリジリと照らし、アスファルトからは陽炎が見える。


「真人くん、手を繋ぎませんか?」


「そうだな」


 真理音と手を繋いでから気づいた。


「あ、真理音。その、気持ち悪くないか? 自分で言うのもなんだけど手汗が……」


 これまでに、真理音とは何度も手を繋いできた。その度に緊張はしたが手汗が出るほどではなかった。なのに、恋人と意識した途端にこれである。


「そんなことないです。私だって手汗出ていますし……真人くんこそ気持ち悪くないですか?」


「そんなこと全然ねーよ。真理音に気持ち悪い部分なんてない」


「では、このままで」


 そのままの状態で歩き、知らない建物やお店について話をしながら散歩を続けた。途中、果物屋に差し掛かり真理音があることに気づいた。


「見てください、真人くん。猫です。猫ちゃんがいます」


「そうだな。猫だな」


 店主の優しそうなおばあちゃんの膝で丸くなっている猫を見つけて興奮状態の真理音。そんな姿をニコニコと笑いながら見て、店主は真理音を手招きした。


「よかったら、触るかい?」


「いいんですか?」


 にっこりと微笑む店主を見て、真理音は恐る恐る猫に手を伸ばした。


「ふわぁ~もふもふです!」


「ふふ、この子も気持ち良いみたい」


 店主の言う通り、真理音に撫でられている猫はとても気持ち良さそう目を細めている。


「抱っこも出来るよ」


 猫を抱えた真理音が嬉しそうに寄ってくる。


「見てください、真人くん。とってももふもふです」


「良かったな」


「はい。真人くんも撫でますか?」


「いや、俺はいいよ。遠慮しとく」


「アレルギーですか?」


「アレルギーとかじゃなくて昔から動物に嫌われる体質なんだよ。今までに懐かれたことがない」


「この子は懐いてくれるかもですよ」


「じゃあ、見てろよ?」


 俺が手を伸ばした途端、目を細めていた猫はカッと目を開いて威嚇してきた。昔からこうだ。だから、慣れてる。


「な、言っただろ?」


「なんか、すいません。真人くんにもこのもふもふを堪能してもらいたかったんです」


「いいよ。気にしてない」


「そろそろ、行きましょうか。あ、お礼に桃でも買って行きましょう。あ、でも、買ったら腐ってしまうかもしれないですし……どうしましょう」


「じゃあ、帰ってもいいんじゃないか?」


「そうですね。楽しめましたし、帰りましょうか」


 店主に猫の礼を言って、桃を購入して帰ることにした。

 家に帰ったら、さぞかし当然のように後に続いて入ってくる真理音。


「晩ご飯の後に頂きましょうね」


 桃を冷蔵庫にしまいながら言う。

 真理音とはこういうやり取りを今までに何度も繰り返してきた。だからこそ、こういう場面では何も感じないようになってきている。


 普通、彼女が家に来たらドキドキしたりするもんだと思うんだけどな。いや、でも、変に緊張せずに済むしこれでいいのか?


 ふたりして、ソファに座っているとスマホを眺めていた真理音が画面を見せてきた。そこには、頭に耳がある少女――所謂、猫耳少女が表示されていた。


「真人くんはこういう女の子はお好きですか?」


「……は?」


「あ、そ、その、別に真人くんがこういう女の子を好きでも軽蔑したりしませんよ? その、真人くんが動物に懐かれないのなら私がこういう耳をつけて真人くん懐けばいいんじゃないかなと思いまして……こうやって」


 真理音は手をくねっとさせて猫のようなポーズをとると恥ずかしそうに「にゃ、にゃー」と呟いた。


 これは、真理音が彼女だからとかそういう特別な効果は無視しても破壊力の高いことは分かるだろう。

 直視するのが難しいレベルで可愛い。猫耳がついていないのにだ。これで、猫耳までつけたらどうなるのだろう。恐らく、死人が出るかもしれない。その死人は俺になりそうなんだけど。


「……な、何か言ってください」


「……気持ちだけで十分だから、ありがとな」


「猫についてはスルーですか? にゃ?」


「なんか、言ってほしいのか?」


「……す、少しだけ」


「……撫でたくなった」


「で、では、頭と頬っぺたを提供します。その他はまだ怖いのでダメですけど」


 目を細めて準備オッケーみたいな真理音。そんな真理音を猫に見立てて、頭を先ずは撫でる。すると、真理音は気持ち良さそうに表情を崩した。

 それから、久し振りに柔らかい頬に手をもっていく。安定したぷにっともちもちした感触を堪能する。


 もふもふというやつは感じられないが、それよりも心地よい感触がそこにはあった。


「……今更だけど、なんかこれ馬鹿みたいだな」


「そ、そうですね……なんだか、何をしているのか分からなくなってきました」


「ここらで止めとくか」


「変な気持ちになってもあれですしね」


 冷静になって息を吐く。


「真理音って動物好きなのか?」


「はい。猫も犬も可愛くて好きです。あ、もちろんうさぎも好きです」


「うさぎイコール真理音みたいなところあるもんな」


「私はうさぎより寂しがりですよ!」


「威張んなくても知ってるよ」


「……あと、動物よりも真人くんの方が好きです」


「……それも、知ってる」


「よ、よかったです……」


 俺達は暫くの間、何も言えなかった。

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