第85話 温泉掃除でアクシデントが起こらないわけないよね

「うぐっ!?」


 朝、腹部に強烈な重みを感じて目を覚ました。

 愛奈だった。

 愛奈が馬乗りになりながら見下ろしてきていた。


「にーに、起きた?」


「……愛奈、いきなり飛び乗るは止めてくれ。お兄ちゃん、死んじゃう。永遠の眠りについちゃう」


「にーに、寝てるのー?」


 ぺしぺしと頬を叩かれながら意味が分かってないご様子。


「愛奈ちゃん、そろそろ退いてあげないと真人くんが可哀想ですよ」


 傍に来て愛奈に言う真理音。いつから、俺の部屋は許可なく出入り可能となったのだろう。


「じゃあ、寝起きのチュー」


「あ、愛奈ちゃん!?」


 愛奈から頬にぶちゅーっとされる。それを見て、真理音は真っ赤になった。目を両手で隠してはいるが指の隙間からチラチラと窺ってきている。


「あ、愛奈ちゃんダメですよ! きょ、兄妹だからってこんなことはダメですよ!」


「えー。にーに、いやー?」


「……嫌、ではない。けど、愛奈の唇は大事なものだからもう止めような」


「はーい」


「じゃあ、学校の準備しておいで」


 愛奈は元気よく部屋を飛び出していった。

 腹部から重みがなくなってようやく呼吸がまともに行える。心臓の動きを落ち着かせてから真理音に声をかけた。


「……見たいのか見たくないのかどっち?」


「そ、そんなこと聞かないでください」


「隙間からずっと窺ってるのバレバレだぞ」


「う、窺ってなんていません。そ、それよりも早く降りてきてください。朝ご飯出来たってお母様が呼んでいます」


 逃げた真理音に続いて下に降りた。



 我が家は一階が民泊、二階が自宅という構成になっている。

 周りにはこれといって何もなくのどかな空気が流れているだけ。


 良く言えば、心が安らぐ場所。

 悪く言えば、何もないつまらない場所。


 だからこそ、地元の人しか泊まりにこない。

 でも、評価はいい。

 ここに来てくれたお客様はみんな笑顔で帰っていく。

 それは、母さんと父さんが俺の知らない所で一生懸命頑張っているからだろう。


 そんな、二人のことを小さな頃から尊敬していた。凄い、カッコいい、と。そして、二人のために俺も何かしたいとよく手伝いをした。布団を干したり洗濯をしたり温泉の掃除をしたりと。


 頑張れば褒めてくれる。それが、小さな俺にとっては物凄く嬉しいことだったのだ。


「こうしてると昔を思い出すなぁ……」


 温泉掃除をしていると懐かしい気持ちになる。


 愛奈が学校に行き、真理音と特にすることもなくのんびりしているとうずうずとした彼女が何か手伝いたいと母さんに言った。

 母さんはお客様だからと断ったがそこをなんとかと頼み込み、結果、俺と一緒に温泉掃除をすることになった。


「お、お待たせしました……」


 扉を開けて、少し恥じらいながら入ってきた真理音を見て思わず言葉を失った。遅い、と文句を言おうと思っていたのに何も言えなくなった。


 母さんめ……余計なことを。


 真理音は俺が高校の時に使用していたジャージに着替えていた。


 自分では何度も着て見慣れているのに真理音が着るとどうしてこうも見栄えて違うものに見えてしまうのだろう。


「お母様が濡れたらいけないからと用意してくれましたが……こ、これ、真人くんのですよね?」


「そうだな」


「に、似合いますか?」


「似合ってる……俺が着るよりずっと」


「少し大きいです」


 ぶかぶかというほどではないが、真理音との身長差を考えるとどうしても大きくなるのだろう。


「真人くんの匂いがします」


 この家を出ていくまでほとんど毎日着ていたから染みついているのだろう。


「犬か」


 くんかくんかとしている真理音に鼓動が速くなったことを悟られないようにしながら言った。


 滑りを落とすのに躍起になる。

 昔から、温泉掃除が一番の重労働なのは変わらない。


「真人くん、確認終わりました。全て大丈夫です」


 シャンプー等が残っているかの確認を済ませた真理音。折角、二人で作業しているのだからと役割分担したのだ。


「サンキュー」


「私も真人くんを手伝います」


「張り切るのはいいけど、滑って危ないしゆっくりとな」


「了解です」


 二人して、ブラシで床をこする。

 ごしごし、ごしごしと夢中になりすぎて互いの尻がぶつかってしまった。


「悪い」


「こ、こちらこそ」


 少し距離を開けて、再開しようとした時、真理音がぽつりと漏らした。


「初めての共同作業ですね……」


 何を言い出すんだと呆気にとられていると本人も後悔しているのか真っ赤になりながら身体を震わせていた。

 そして、


「す、すいません。忘れてください」


 と、急いで動き出して足を滑らせた。


「真理音!」


 咄嗟に腕を伸ばし引き寄せる。

 そこまではよかったが同じように足を滑らせてしまい、結局倒れ込んでしまった。


「イテテテテ……大丈夫か?」


「は、はい……真人くんのおかげです」


 そして、どういう状況なのかにようやく気づいた。真理音に押し倒されるような形となり急接近していた。


「だから、言っただろ……滑るからって」


「はい」


 話す度に真理音の息が鼻にかかる。

 一段と騒がしくなる心臓の音が伝わっていないようにと願うので精一杯だった。


「ま、真人くん……」


 覚悟を決めたような鋭い目つきになると真理音は体重を預けてきて、彼女の小顔が一際近くに見えた。

 荒い息遣いを耳にしながら近づいてくる真理音に何も出来ないでいると扉が大きな音を立てて開けられた。


「にーに、まりねちゃん。帰ってきたよ!」


 愛奈だった。

 わざわざ、ご帰宅の連絡をいれに来た愛奈は呆然としている俺達をじっくりと眺めると首を傾げながら、


「プロレスごっこ?」


 と、聞いた。

 その瞬間、飛び退いた真理音。


「そ、そうなんです。ちょっと、遊んでただけで……」


「まりねちゃん強いねー。私とも勝負しよ」


「あ、愛奈。その前に真理音を温泉まで連れてってやってくれ。この時間ならまだ大丈夫だから」


「分かったー」


「残りは俺がやっとくから……」


「わ、分かりました……」


 真理音の顔を見れないまま頭を下げた姿だけが目に焼き付いた。

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