第86話 男はみんな狼さん、なんですもんね?

 どれだけ雑念を消そうとしてもさっきの真理音の表情がはっきりと記憶に残り鮮明に思い出してしまう。そして、その度に心臓の動きが速くなる。


 キスされるんじゃないかと思った。


 火照った顔で迫られ、違うかもしれないのに頭の中にはその考えしか存在していない。


 だって、しょうがないじゃないか。あんなにも切ない声で名前を呼ばれ、あんなにも近づかれたんだ。そう考えてしまうに決まってる。


 真理音はどうしたかったんだろう。キス、したかったんだろうか。それとも、密着したかっただけ、なんだろうか。


「……あの、真人くん。いますか?」


 不意に真理音の声が聞こえドキッとした。


 温泉は男湯と女湯で隣合わせになっているため、少し大きな声を出すだけで届いてしまうのだ。


「あ、ああ。いるぞ」


 普段は、時間によって分けているが今はまだどちらもその時間ではない。ということで会話をすることにした。


「……さっきはすいませんでした。私、どうかしていたみたいで」


「あ、謝る必要ない」


「ですが……真人くん、顔を見てくれなかったですし」


 真理音の震える声が届く。


 俺はどうしてこうも駄目人間なのだろう。いつもいつも、真理音はグイグイきてくれるのにそれに応えられず、挙げ句、悲しませて謝らせて……自分が嫌になる。


「真理音が何をしようとしたのかを考えると緊張して恥ずかしくて見れなかった……」


「……へ? あの、私が迫ったからイヤになったんじゃ……」


「それはない。真理音のことイヤになったりなんかしない」


「よ、よかったです。てっきり、嫌われたのかと思って……」


「……嫌いだよ、こんなヘタレ。いつもいつも真理音に我慢させて」


「私はそんな真人くんだから好きなんです。だって、思うんです。私が変わった途端、周りの男の子達が急に優しくなりました。今まで陰口を言っていたのにです」


 それは、きっといつか斑目も言っていたことだろう。真理音が変わると周りの男も手の平を返すように媚びを売り出したと。


「でも、それは、私個人を見ているのではなく、二条真理音という人間が傍にいる自分を見ているだけなんです。二条真理音が傍にいる自分が良いものだと認識しているんです」


 悲しい話だが、恐らくは真理音の言う通りだろう。絵を描くことが好きなのと暗いという理由だけで理不尽にも真理音は虐められていた。なのに、可愛くなった途端、態度を変えるということは自分のことしか考えてない証拠だろう。真理音をただの道具かなんかと勘違いして利用する。

 そう考えると顔も名前も分からない真理音に接してきた男達に腹が立った。斑目がクソ男だと称することにも同意できた。


「……よく、分かるな。普段は鈍いのに」


「鈍いは余計です。それに、簡単ですよ。目が違うんです。私を見る目が小さい頃の男の子達と一緒なんです。いつまで経っても」


「……そっか」


「ですが、真人くんの目は違うんです。ちゃんと私のことを見てくれています。さっきだって、真人くん以外の男の子なら何をされていたか分かりませんでした。初めてを奪われていたかもしれません」


 それを聞いて、思わず咳き込んでしまった。


 は、初めて……!? い、いや、真理音のことだからかそうだろうとは思うしそうであってほしいとは思うけど……爆弾発言が過ぎるだろ!


「だ、大丈夫ですか? 何か、あったんですか?」


「い、いや、大丈夫……真理音。その、は、初めてとかはあまり口に出すもんじゃないぞ」


「で、ですが、誰ともしていませんし」


「し、シテっ……そ、そういうことも言うもんじゃない」


「ですが、不安になりませんか? その、何回ちゅ、ちゅちゅちゅ、ちゅう……したか、とか」


「……は、ちゅう?」


「そ、そうですよ。ちゅうですちゅう。別名、キスです。好きな人がどれくらいキスしてるのか知りたくなるのは当然なんだと思うんですけどいかがですか!?」


 ちゅうちゅう……キスキス。……はは。ははは。ふんぬ!


「ど、どうしたんですか!? 凄い音がしましたよ」


「ははは、大丈夫大丈夫。ちょっと、滅しただけだから」


「何をですか!?」


「とにかく、話を戻そう」


「物凄く気になりますが……そうですね。ようは、さっきのが真人くん以外の男の子なら抱きしめられてそのまま初めてのき、キスをされていたんじゃないかと思うんです。ですが、ちゃんと真人くんは私のことを考えて耐えてくれました。それが、嬉しいんです」


「……いや、さっきのは単純に勇気や覚悟がなかっただけで耐えたとかでは」


「そうだとしても、知らない内に真人くんは耐えてくれたんだと思いますよ。だって、男はみんな狼さん、なんですもんね?」


 それは、いつも逃げる時のために使っていた言葉。まさか、真理音から出てくるとは思わず少しくすぐったい気持ちになった。


「理性と本能って本能の方が勝つ時が多いと思うんです。ですが、真人くんは理性が勝ってるのでちゃんと私のことを考えてくれているんです。証明完了です」


「つまり、俺はまだ狼にもなれてないってことか」


「ふふ、真人くんはまだまだ可愛いワンちゃんですよ。沢山、可愛がってあげられます」


「なんだよ、それ」


 いつの間にか、いつもの調子の俺達に戻っていた。真理音とは言い合いになっても気づけばいつものように馬鹿みたいな会話をしている。それが、なんだか凄く幸せに感じる。


「……真理音」


「はい」


「ありがとな」


「ふふ、どういうことか分かりませんが受け取っておきますね」


 壁越しなのにいつも以上に真理音との距離を近くに感じた。


 さてと。掃除も終わったし、俺も濡れちゃってるから着替えでもとって温泉に入ろう。久し振りだし、今日くらいは一番目を貰ってもいいだろう。


「まりねちゃーん!」


 隣から愛奈の大きな声が聞こえてきた。


「一緒に入ろー!」


「きゃっ!」


 真理音の短い悲鳴と水しぶきが聞こえ、愛奈が飛び込んだことが分かった。愛奈はどうしてあんなにも元気なのだろう。俺が子どもの頃はああではなかった。将来、愛奈がギャルになったらどうしよう。


「まりねちゃんのおっぱい大きいねー!」


「っん!」


「わー、やわらかーい。パンケーキみたーい。きもちいいー!」


「あ、愛奈ちゃん……だめっ……やめっ」


「すべすべー!」


 ……愛奈には、一度本気で説教しなければいけないのかもしれない。少しは大人しくしてもらうために。……後、真理音のおっぱいの感触はプリンだし。当てられただけで、揉んだことはないから分からないけどプリンだし。


「ま、真人くん……き、聞いていませんよね?」


 真理音のおっぱいがどういう感触かも真理音の艶かしい声もばっちり聞こえているが黙っておいた。


「よかった。真人くんがいなくて……」


 はいはい、ここにいます! とは言わず、息を殺して潜んだ。

 ここは、黙秘することが正解だと思った。

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