第70話 ゼロ距離まではまだまだ遠い
「そう言えば、真人くん。今朝、学校からの連絡で今学期の成績が出たらしいですけどちゃんと見ましたか?」
昼、そうめんをすすりながら真理音が言った。麺をすするしぐさも丁寧で、なんだか上品に見える。それでいて、口に含む時に鳴る「ちゅっ」という音が艶かしい。
見られていると気づいた真理音は口を隠しながら赤くなってじと目を繰り出した。
「女の子が食事している時に口を見るのはナマー違反です。失礼です」
「悪かったって。で、成績だっけか?」
「はい。メールで届いていると思いますが」
確認のため、スマホを起動する。すると、確かに大学からのメールで成績発表という報せが届いていた。
「ほんとだな。まだ見てないし後で見るよ」
「真人くん。どうして、重要なことなのにすぐに見ないんですか?」
「だって、夏休みに入る前に何も言われてないってことは補習はないってことだろ」
「はい」
「じゃあ、後は単位がとれてるか落ちてるかのどっちかしかないわけだ。そりゃ、多少の不安はあるけど今さら焦っても仕方ないから後回しにしてる」
「真人くん……危機感が足りませんよ」
「それに、学校からのメールってどうでもいいことの内容の方が多いだろ? だから、極力見ないようにしてる」
言い切ると真理音は呆れたようにため息を吐いた。
でも、実際にそうなのだから仕方がない。
「とにかく、食べ終わればすぐに確認ですよ。いいですか?」
「分かったよ」
最近、真理音がますます口うるさく母親みたいになってきているような気がする。俺には母親プレイとかいう特殊性癖はない。そこだけは、理解しておいてほしい。
「ど、どうでしたか?」
隣に座る真理音が不安そうに聞いてくる。
「待ってくれ。今、見たばっかりだから」
「気になります」
覗き込もうとしてくる真理音から逃げるように背中を向ける。ったく、俺にはプライバシーとかがないのか。さっき、マナーがどうとか言っていたが自分の行動も十分マナー違反じゃないか。
すると、避けられたと思ったのか真理音がおんぶするような形で背中に覆い被さってきた。
背中に当たる柔らかな感触。これだけは、きっと何度触れても慣れることはないのだろう。
「見せてください!」
「ま、待て。見せるから。動くな」
「どうしてですか!」
真理音は気づいていないのかもしれないが、スマホを奪おうとグイグイ身を乗り出してくる度に柔らかな感触がよりいっそう強くなる。髪から香る良い匂いに心臓の動きが加速する。
そういうことをちゃんと分かってほしい。
俺のことを好きな女の子から無意識にもこういうことをされると理性が崩壊するかもしれないということを考慮してほしい。
「いーかげんに――」
とっととスマホを渡してしまおうとして真理音の方を向くと顔が超至近距離にあることに気づいた。背中に当たるもののせいで俺もまた真理音の顔がどこにあるのか頭になかった。
すると、硬直している俺の隙をついてスマホを奪い取った真理音。嬉しそうな笑顔を浮かべたまま俺のことを見て、ようやくどういう距離にいたのかを理解したのか真っ赤になった。
どちらかの背中を軽く押せばそのままキスしてしまうほど近い。
「す、すいませんでした!」
弾かれたように遠退いた真理音。
そのまま、ソファの上で正座して何度も綺麗に頭を下げて土下座する。
「い、いい……」
「で、ですが……」
「そ、それよりも単位はどうなんだよ……わがままで欲張りな真理音に取られたから見れてないんだよ」
「わがままで欲張りって酷いです……真人くん相手にしか出来ないんですからいいじゃないですか」
口を尖らせながら、スマホを操作していく真理音。少ししてから顔を上げた。目をキラキラと輝かせていることからきっと大丈夫だったのだろう。
「全部合格でした!」
「そう」
スマホを返してもらい自分でも確認する。とびきりいい成績ではないが無事に全て合格で落としているものもなかった。
俺らしいって言えば俺らしいか。
至って普通。何も面白味のない成績だ。
「真人くん真人くん」
呼ばれて視線を移すと真理音は両手を小さなばんざいでもするかのように構えていた。
「なんだ?」
「合格のお祝いにハイタッチしましょう!」
「大袈裟過ぎないか?」
「いいじゃないですか。イエーイ」
真理音の口から聞いたことのないような単語が出て思わず笑いそうになったのを必死で堪えた。
「イエーイ!」
相手をしなかったせいか、ずいっと近づいてきて催促してくる。眉間にしわを寄せて、せがんでいるようだ。
「いえーい」
仕方なく、相手をすると満足いったのか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
さっき、あれだけ近くなって後悔したくせによくやるよ。
相変わらずの真理音のグイグイさを実感していると突然すくっと立ち出した。
「で、でででは、一旦失礼します!」
「……は?」
「晩ご飯の時にまた来ますので!」
逃げるように家を出ていった。
その際、顔が真っ赤になって若干涙目であることが伺えた。
その事から、どういう状況なのかある程度理解した。恥ずかしさの限界で逃げた、ということだろう。
本当にお馬鹿だ。自分からグイグイきて自分から逃げていく。とんだ、大お馬鹿だ。そして、そんなところでさえ可愛いと思ってしまう俺も馬鹿だ。
あれだけ、好きだと言われて意識しないままでいれるはずがない。あの日から、真理音のことが一段と可愛く見えるようになった。さっきだって、真理音が遠退いてくれなかったら俺はどうしてたか分からない。
「ほんと、好きって難しい……」
可愛いから好きなのか。
友達だから好きなのか。
恋したから好きなのか。
好きにも色々な形がある。俺はまだ、二番目を出発した所なんだろう。怖いから、ゆっくりゆっくり成長していきたい。それから、真理音が伸ばしてくれている手を掴みたい。
「それまでは、欲望に負けちゃダメだ……絶対に、ダメだ」
二回、頬を叩いて気合いを入れ直した。
◆◆◆◆
真人の家から飛び出し、逃げ帰ってきた真理音はベッドにダイブした。そのまま、顔を枕に埋めて声にならない叫び声を上げる。
これは、マズイです。マズイです。マズイです。
無意識だったとはいえ、もう少しで真人とキスする距離まで密着していたこと。
そして――
「む、胸まで押しつけてしまいました……」
よく、九々瑠ちゃんからは『真理音は胸が大きくていいね。それで、迫れば星宮なんてイチコロよ。アイツ、強がってるけどそういう方面には弱いはずだから』って言ってくれますが私も無理なんです! さっきは真人くんに避けられたのが悲しかったら近づけただけで冷静に考えればとんだ破廉恥でした!
自分の失態を思い返し、ひどく後悔した。
ずっと、枕に顔を埋めていたせいで息が苦しくなった真理音は顔を上げて小さなため息をつく。
「真人くんとき、キスしたくないかと言えばしたいです……でも、まだ無理です。あの距離でさえこうなってしまうのに唇が重なり合うなんて……とてもとても」
もし、あのままもう少し距離が近く、唇を重ねてしまっていたら……と、姿を想像してゆでダコのように真っ赤になる。ぷしゅーと湯気を出しながら頭を横にして邪な考えを消す。
「真人くんに可笑しな子、って思われていませんように……」
そう祈りながらもう一度枕に顔を埋めた。
まだまだ、ふたりの距離は近くて遠い位置にあった。
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