第75話 ちゅ、ちゅちゅちゅ、ちゅっちゅっ、ちゅう……?
結論からして、俺の不安は全くの杞憂に終わった。
真理音の部屋では彼女が今まで描いてきた絵を披露する展示会のようなことが行われていた。心配したことが馬鹿だったみたいに何も起こらない。
「これは、幼稚園の時に描いたんです。これは、小学生の時に――」
真理音が楽しそうにうきうきと話してくれる内容に相づちをしながら聞いていた。俺に絵の才能や知識はない。だから、上手い下手とそんな簡単な感想しか出てこない。
だからこそ、話を聞くことに集中した。
何より、絵とお母さんの話をしている時の真理音は一段と輝いていてそんな姿を見ていたかった。
どれくらい時間が経っただろう。
ひとしきり話し終えた真理音は満足したのかふーと息を吐いた。それから、少し不安そうにして枕をきゅっと抱えた。
「すいません、真人くん。私、自分の話ばっかりで……つまらなかったですよね」
「そんなことねーよ。真理音の話してる姿を見てたらさ、絵とお母さんのこと本当に好きなんだなって思ったし」
「ですが、相手が分からない話をひたすら続けるのは嫌われると聞きます」
「確かに、そういうこともあるかもな。でも、真理音は一生懸命話しただろ。そういう人の話は聞いてる方も楽しくなるんだよ。実際、楽しかったし真理音が絵を描くのが下手な時もあったんだなって知らないことも知れた。つまらなくなんかないよ」
すると、真理音は頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いた。
「真人くんは私を天才とでも思ってるんですか? 料理の時もそうですけど不服です」
「だって、絵も料理も上手いからさ」
「練習して努力したんです。始めから上手な人なんていませんよ」
「ま、そのおかげで毎日美味しいご飯が食べれてるんだから感謝しないとだな。ありがとな」
「……真人くんに感謝されると嬉しいです。無駄だと思っていたことも真人くんがいると無駄になりません」
息が止まるかと思うほどの優しく微笑む姿を見せられ、思わず視線を逸らした。今ので余計に意識してしまい、逃げるように俺は立ち上がった。
「そ、そろそろ、眠くなったし部屋に戻る」
「もう、こんな時間ですか。もっと、お話ししたいですけどしょうがないですね」
見送るためについてきてくれるが部屋を出たところで制した。
「ここまででいいよ」
「何かあれば呼んでくださいね」
俺に用意された部屋は通路の一番奥で真理音の部屋はその隣にある。まるで、数時間限定の兄妹にでもなった気分だ。
「分かった」
「あの、真人くん。よ、夜這いとかはなしですよ。その、まだ覚悟がないですから……」
「するか、馬鹿」
「即答は酷いです。私ってそんなに魅力、ないですか……?」
「アホか。今だって色香ぷんぷん撒き散らしといて何言ってんだよ」
香りも仕草も服装も言動も、それら全てが誘っているんじゃないかと思えてしまう。
「そ、そんなにぷんぷんですか?」
「ああ。もう、ノックアウト寸前だぞ?」
実際、普段の何倍も色っぽい。いつもは子どもらしくても今日はいつもより大人っぽく見える。
「で、では、私が夜這いするととんでもないことになりそうですね……」
絶対、そんなことはないだろう。だって、グイグイくるけどそれが極端になると恥ずかしがって後悔する、ここまでが真理音のルーティンなのだから。
でも、もし、万が一ということもある。
夜、寝ぼけた状態で真理音に「一緒に寝てください。ひとりで寝るの寂しいです」と言われたら迎え入れてしまうだろう。それで、何か事故でも起これば、またごちゃごちゃになってしまう。
だから、絶対に阻止しないといけない。
例え、怖がらせてしまうことになっても。
「え、ま、真人くん……きゃっ」
俺は黙って真理音を壁に追いつめ、勢いよく手をついた。俗に言う壁ドンだ。今までに壁ドンなんてしたことない。手も痛いし、顔は近いし、いい香りはするし、正直やったことを後悔している。世のイケメン達が平然とやってのけることに敬意すら覚えた。
それでも、俺は続けた。震える手で真理音のアゴを上げて顔をさらに近づける。
「これから、何されるか分かるか?」
「ちゅ、ちゅちゅちゅ、ちゅっちゅっ、ちゅう……?」
きっと、真理音の内心は俺以上にとんでもないことになっているのだろう。目をぐるぐると回しながらネズミの物真似を披露していることが何よりの証拠。
ああ、本当に可愛らしい。どうして、こんなにも可愛い子が俺を好きで居続けてくれるんだろう。今だって、俺は真理音のこんな姿を見れて楽しいと思ってる酷いやつだ。もしかしたら、真理音を期待させちゃうかもしれないのに……実際に手は出さない。出す度胸がないヘタレなんだ。
自分の嫌な部分を自覚しながら真理音の耳元に顔を近づけた。
「違う。もっと、すごいこと」
囁くと真理音はびくんと身体を反応させてへなへなと床に沈んでいった。
「真理音。夜這いはなしな」
「ひゃ、ひゃい……もう、言わないです」
「うん、じゃあ、おやすみ」
「お、おやすみなさい……」
真理音の部屋の扉を閉めると急いで布団まで行って身を包んだ。
あああああっ! 俺の馬鹿! あんなことして明日どういう顔で真理音と会えばいいんだ。しかも、ヘタレなくせに余裕ぶって……穴があったら入りたい。いや、自分で掘ってでも埋まりたい!
激しく襲ってくる後悔。
いつも、真理音がどういう気持ちなのか分かった気がした。
「もう寝よ。寝て忘れよう……」
電気を消して、目を閉じた。
起きたら全て忘れていますように。
ね、眠れない……寝たいのに目が冴えて仕方がない。俺って、どこでも寝れるタイプなんだけどな。やっぱ、さっきのせいか……。
「水でも飲んでこよう……そしたら、眠れるかもしれないし」
部屋を出て、すぐに仏壇が置いてあった部屋の明かりがついていることに気づいた。音を立てず静かに近づきそっと顔を覗かせる。
「うっうっ……お母さん……」
真理音は静かに泣いていた。
仏壇の前で座りながら目を何度も何度も擦っている。
俺は水を飲まず部屋に戻った。
横になって、目を閉じる。すると、自然と真理音の姿が浮かんだ。
きっと、真理音はずっと我慢していた。俺がいる前では強がって笑って……だから、今は涙が止められないのだろう。
俺が小さい時に父さんのじいちゃんばあちゃんが亡くなった。もちろん、悲しかった。けど、小さかったせいであまり記憶には残っていない。
でも、真理音は違う。大好きなお母さんとの記憶がしっかりと残ってる。俺が琴夏を忘れないように真理音もお母さんのことを忘れないんだ。大好きだったから。
真理音に対して、俺はどうすべきなのか。
考えても明確な答えは分からなかった。
それどころか、段々と睡魔に襲われ深い眠りに入った。
夢の中で俺は名前も分からない綺麗な女の人に出会った。優しく微笑みながら何かを言っているが小さくて聞こえない。
それを、聞くために前に進む。
そして、ようやく何を言われているのか分かった。
『あの子のことをよろしくね』
彼女から任された……いや、託された気がした。
まだ、俺には何が出来るのか分からない。
それどころか、自分の問題でさえも解決できてない情けないやつだ。託されるような男じゃない。
それでも、真理音の支えになりたいし力になりたいと思ってる。そんな関係じゃないし自分の勝手な都合だとしてもその気持ちだけは嘘じゃない。
だから、いつか託して良かったと思ってもらいたい。思われるような男になりたい。
胸を張って言えるような男じゃない。
それでも、彼女から逃げないために胸を張った。
「任せてください」
弱っちい男の小さな覚悟として受け取ってくれたのだろうか。
よくは分からなかった。
ただ、彼女は安らかな笑みを残して煙のように消えていった。
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